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2013年10月

2013年10月31日 (木)

アーサー・ビナードさんのお話 3 平和の反対は?

平和の反対は?

 

 ビナードさんは会場の僕たちに、「平和の反対は何ですか?」と問いかけた。 僕も含めて多くの人は、「それは戦争です」と考えた。しかし、ビナードさんは、「それはペテンです」と自らの問いに答えた。意外な答えに驚いた。以下彼の説明の要約。(僕なりに彼の講演を解釈した要約)

 「 戦争を始める権力者は国民をだまして、つまりペテンにかけて戦争を引き起こす。具体例。大量破壊兵器を理由としたイラク戦争。トンキン湾事件を口実にしたベトナム戦争。9.11テロ事件を口実にしたアフガニスタン戦争。」

 「 第一次世界大戦でアメリカ国民は戦争は庶民に何ももたらさない、若者が死ぬだけだと、反戦・厭戦気分になっていた。しかし、産業界、特に軍需産業は戦争を望んでいた。特に日本との戦争には国民を納得させるだけの大義名分を必要としていた。」

 「 真珠湾攻撃は、アメリカのワナにはまった日本の攻撃である。パールハーバーには戦艦アリゾナがいたが、空母は”たまたま”いなかった。太平洋戦争は空母で決着がついたが、”偶然”その時にはアメリカの空母はハワイにはいなかった! 」

 「 日米共に、現場の兵士は大変だった。しかし戦争を命令する上層部はほくそえんだ。 アメリカの新聞は翌9日、待ってましたとばかり、用意してあったと言わんばかりに、大々的に日本の卑怯な奇襲攻撃を報道し、アメリカ政府は対日宣戦布告をした。愛国心が吹き荒れ、戦争遂行が用意になった。」

 「 以前アメリカは、現在の国防省を戦争省( departmennt of war )と呼び、その長を 戦争長官 ( secretary of department of war ) と呼んでいた。これではストレートすぎるのでイメージを柔らかく、国防省( department of defence ) と変えた。 戦争は全て”国を守る=国防”の名のもとに行われる。 」

 「 1953年12月8日、アイゼンハワー大統領は国連で「原子力の平和利用 atoms for peace ]について演説をした。核を戦争のためでなく、人々の生活のために使う。 原発は核兵器開発の副産物であるが、核開発に膨大な投資が必要だった。その投資を回収するするため、企業の利益のため核輸出をする必要がある。そこで考え出されたアイデア(ペテン)が、”原子力の平和利用”である。」

 「 英語では”原子炉”を nuclear reactor と言う。核分裂反応機。 しかし日本政府および御用学者が日本人の核アレルギーを解消するため、原子炉という言葉を発明した。当時日本の戦後復興のシンボルは、製鉄所の溶鉱炉であった。炉のイメージは日本人に温かく、力強く響く。夢のエネルギー、無限のエネルギーと宣伝され、ビキニ環礁での水素爆弾の核実験への非難は消えた。」

 

 

2013年10月29日 (火)

アーサー・ビナードさんのお話 2 「平和ぼっぱつのお祭り」

平和ぼっぱつのお祭り

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 8月に講演の演題をお願いしたところ、「平和ぼっぱつのお祭り」にしましょうと電話で答えられた。詩人らしい演題だなと思ったが、”ぼっぱつ”に込められたビナードさんの思いまでは考えなかった。

 以下ビナードさんのぼっぱつに関わるお話の要約。 『 ぼっぱつと漢字で書くと、勃発となります。”勃き”の勃です。勃発という意味は何でしょう? (指名して質問。) そうですね。突然起きるですね。僕が日本に来た時、湾岸戦争が起きました。新聞には”戦争勃発”の大きな見出し。当時日本語はあまり分からなかったので辞書で調べると、”勃発”の説明がありました。

 英語では”braek out" . イタリア語でも同様な意味の言葉を使います。しかし、戦争はある日突然起きるでしょうか? 近代戦争はミサイル、戦車、戦闘機、高度な武器を使います。準備なしに戦争を起こすことは物理的に不可能です。

 周到に準備し、あるきっかけを口実に(大義名分・理由)始まるのが近代の戦争です。( 僕の注釈: そういえば昔の戦争も軍備を整え、敵の内情を調査し、周到に準備して権力者は自己の野望のため戦争を始めた! )

 しかし平和は”ぼっぱつ”します。 (ビナードさんは自分が翻訳した絵本「キンコンカン戦争」を全文朗読)  皆が「戦争はイヤだ。止めよう。武器を捨てよう・無くそう。平和がよい。」という気持ちになれば、この絵本のように戦争は止まります。 何の準備も要りません。

 (竹野注釈: ベルリンの壁が崩壊したのは、ある日突然だった! )

 平和

2013年10月28日 (月)

アーサー・ビナードさんのお話 1

アメリカ合衆国憲法違反のアメリカ

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 ビナードさんはアメリカの憲法と歴代政権の憲法違反についてこのように話された。「憲法は立派だが、いまではお飾りになっている。建国の父たちは憲法を制定する際、ヨーロッパの政治・権力者を反面教師として、憲法を権力者の暴走を食い止めるものにした。

 戦争は多額の税金を使う。だから予算案が議会で通過できなければ、戦争できない仕組みになっている。また外国と戦争するには、宣戦布告が必要である。つまり議会のチェックが働く仕組みになっている。

 アメリカは第二次世界大戦では日本に宣戦布告をして戦争を始めた。(講演では触れなかったが、ドイツ・イタリアに対しても同様) ところがそれ以降今日まで、アメリカは200回以上戦争をしているが、一度も宣戦布告をしたことが無い。朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・イラクに対する戦争・アフガニスタン戦争、全て宣戦布告なき憲法違反の戦争である。」

「 原爆製造マンハッタン計画は極秘に進められた。国家予算の相当な額を使うにもかかわらず、議会にも知らせなかった。アメリカの憲法では税金を使う際、領収書が必要とまで書かれている。

 膨大な税金を使ったマンハッタン計画を議会・国民に納得させるためには、ハデなショウーを必要とした。ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下である。これによって米国人の命の犠牲を食い止めることができた、戦争を終結させることができた、と議会・国民に宣伝し、膨大な税金を議会の承認なしに消費したことを免責させた。」

第五福竜丸

 「 第五福竜丸の久保山愛吉さんたちは、核実験・死の灰の犠牲者というイメージが強い。可哀想というイメージ。しかし実際は違う。無線長だった久保山愛吉さんは、強烈な爆発・閃光・ぽたぽたと降ってくる白い灰で、これは原爆の実験と理解した。証拠に船の甲板に降り注いだ死の灰をあつめ、ビンに詰めた。無線を使えば、アメリカ軍に傍受される。自分たちはアメリカの国家機密をたまたま知ってしまった。アメリカ軍に見つかれば証拠隠滅のため、殺されるかもわからない。ここから脱出するのに日本への最短コースだと米軍に発見される恐れがある。そのため、わざわざ死の灰が降り注ぐコースを選んだ。米軍も危険だからこの空域・海域にはいないだろうとの判断で。

 もし途中で米軍に発見されたら、日本に無線で知らせることも決めていた。事実を消されないために。久保山さんたちは冷静に行動した英雄である。」

 ビナードさんは「ここが家だ ベンシャーンの第五福竜丸」の本を示しながらこの話をしてくれた。始めて聞く話しに大きな衝撃を受けた。

 ビナードさんの話しでアメリカの憲法、第五福竜丸を勉強したくなった。いつかその成果をこのブログでレポートしたい。

 次回はビナードさんの語った「ぼっぱつ」について。

 

2013年10月27日 (日)

素晴らしかったアーサー・ビナードさんのお話

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 10月21日、袋井市総合センター4階大会議室で3回目となる袋井市核兵器廃絶平和推進事業としてのアーサー・ビナードさんの講演会を実施した。

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 参加者は約100名。ビナードさんの興味深く、かつ皮肉交じりのユーモアあふれるお話に2時間10分の長時間となったお話にも関わらず、誰一人席を立つことなく最後まで真剣に聞き入った。

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 静岡新聞、中日新聞はその様子を記事にしてくれた。

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 僕は彼の講演の中で、アメリカ合州国憲法と第五福竜丸について触れた内容に大きな衝撃を受けた。明日その内容を詳しくレポートしたい。

2013年10月25日 (金)

静岡県の反(脱)原発運動は協調・統一に向かいつつある

10.13原発ゼロ統一行動in静岡

 東京では4万人集まった原発ゼロ統一行動は、静岡県でも取り組まれた。写真を入れようと悪戦苦闘しているが、上手くいかない。言葉では説得力に欠けるが、報告したい。

 10月13日午後1時から静岡市常盤公園で集会が開かれ、「浜岡原発を考える袋井の会」として参加した。全体の参加者は約300名。

 嬉しいのは県内反原発団体および個人が、一つの集会(終了後パレード)に参加したことである。準備不足や距離(静岡県は横に長い)の関係で、全ての団体・グループが集まった訳ではないが、党派を超えて一緒に取り組んだことを評価したい。

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 画像の取り込みがうまく行ったので、写真で紹介する。

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 上は新日本婦人の会のグループ。

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 呼びかけ人の林静大名誉教授。

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 毎週金曜日に静岡市の街頭で金曜行動に取り組んでいるグループ。

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 仮装した若者も参加する市内パレード。

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 浜松市と異なり静岡市は繁華街に人がたくさん出ているので、訴える効果がある。

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 安倍政権になってから原発推進派が巻き返しを狙っている。中部電力も再稼働に向けて動き出している。そのような中で、反(脱)原発を目指す僕たちが、バラバラに運動していたら力にならない。他県の状況は把握していないが、静岡県では大きなアクションを起こす時、一緒にやろうとの機運が出てきた。

 11月10日には、焼津市に山本太郎さんが来る。夜、山本太郎さんと浜岡原発31キロ圏内反原発団体との交流会がある。また12月7日には袋井市で、第4回31キロ圏内交流会が開催される。僕たち「浜岡原発を考える袋井の会」が当番で準備にあたることになっている。

2013年10月23日 (水)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 17 最終回 

瀬長亀次郎さんの不屈館を訪れて

 長々と沖縄レポートを書いてきたが、今回で最終回としたい。9月30日、那覇市若狭にオープンしたばかりの瀬長亀次郎と民衆資料「不屈館」を訪れた。

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 右の女性は瀬長さんの娘さんで館長・内村千尋さん。千尋さんは芸術家でもあり、彼女の作品も展示されている。

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 瀬長亀次郎さんは1907年沖縄県豊見城に生まれる。1929年、社会主義運動に加わったという理由で、七高(現鹿児島大学)を放校処分。1932年、丹那トンネル労働争議を指導中、治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑を受ける。

 1936年、沖縄朝日新聞記者に。1938年、兵役に召集され、中国へ。1940年、復員。毎日新聞那覇支局記者に。1945年、北部山中で敗戦を迎える。田井等市の助役に。避難民の救援にあたる。

 1946年、「うるま新報」(現琉球新報)社長に就任。1947年、沖縄人民党創立大会で中央委員に。1949年、人民党書記長。1952年、琉球政府第一回立法院議員選挙で最高点で当選(那覇市区)。

 

 1954年3月、第二回立法院議員選挙当選。10月、米軍による沖縄人民党弾圧事件で逮捕。軍事法廷で懲役2年の刑に。沖縄刑務所に投獄。1956年4月、出獄。12月、那覇市長に当選。

 1957年11月、米軍の布令で那覇市長の座を追放される。1960年、沖縄県祖国復帰協議会の結成に奮闘。1968年、革新統一に全力を投入し、屋良朝苗主席・平良良松那覇市長を誕生させる。自らも立法院議員選挙で最高位当選。

 1969年、世界平和評議会から日本人として始めてジョリオ・キュリー章受章。1970年、戦後初の国政選挙で沖縄人民党公認・日本共産党推薦で国会議員に当選。以後、衆議院議員を7期。2001年、94歳で死去。

 「不屈館」には亀次郎さんが残した資料や書籍が展示され、亀さんの映画上映、彼の闘いや人柄が分かる写真などが展示されている。

 僕は2時間ゆっくり見学させてもらった。テレビの映像を見ていると、お茶と茶菓子まで出してくれた。阿波根昌鴻さんと瀬長亀次郎さんは米軍と闘った沖縄の英雄である。二人の共通点は、えらそうぶらない人間的・庶民的な人柄だと思う。

 観光で那覇市を訪れたら、首里城だけでなく是非この「不屈館」にも足を運んで欲しい。

近くに「対馬丸記念館」や波の上宮もある。モノレール「県庁前駅」から海の方角へ徒歩15分。下ののぼりが目印。

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2013年10月19日 (土)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 16 伊江島の未来

伊江島の明るい未来への提言

 たった二日間滞在しただけで「未来への提言」と書くには気恥ずかしいが、率直な僕の感想は、「この島は軍事基地が無くても、農業・観光・漁業で自立できる」。

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 観光協会のパンフレットによると、伊江島の農産物はさとうきび、葉タバコ,冬爪(トウガン)、菊栽培、紅芋、伊江島牛である。写真で分かるように平坦な土地は農業に適している。これまでは離島故、農業用水の確保が大変だったが、地下ダムが完成すれば水の問題は解消する。

 農業で食べていくのは本土でも大変だが、民宿など観光産業との兼業でやっていけるのではと思う。僕が滞在中、大阪の高校が修学旅行で伊江島に体験宿泊研修に来ていた。350名以上が分かれて民宿に泊り、農業・釣り・料理体験・観光などのプログラムだった。

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 釣りの経験がなくても面白いほど釣れる。魚の大きさはいわしぐらいだったが、てんぷらにするとおいしい魚だ。高校生たちは夕方てんぷら料理体験をして食べるそうだ。僕が泊った民宿も同じ魚を出してくれたが、ご主人が朝釣ってきたものだった。

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 この写真はすでに掲載したが、民宿のおじさん・おばさんたちが宿泊している高校生たちをワゴン車で連れてきていた。

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 写真右手の若者は高校生。実際にはもっとたくさん来ていた。僕も教員時代に修学旅行で生徒たちを渡嘉敷島に引率したことがあるが、生徒たちはきれいな海に大喜び。泳いだり、シーカヤック・カヌー体験、サーターアンダギー作りなどを満喫していた。

 伊江島は沖縄戦で集団自決を強いられたガマ(洞窟)がいくつかある。全員が助かったガマも。米軍基地や旧日本軍の陣地跡もあり、平和学習もできる。意識の高い学校なら、阿波根昌鴻さんのわびあいの里がもっとも平和学習に適している。

 離島故、自転車でのんびり回ることもできる。アクティビティーに適しているのだ!!!。城山(たっちゅ)登山(?)も。小学生から中・高生が安心して沖縄を体験学習できるのが伊江島だと思う。もちろん大学のゼミ旅行や一般の観光客にもむいている。

 4月から5月にかけて100万輪のゆりが咲き誇る。桜の木はあまり見かけなかったが、島一周の道路ぞいに桜を植えたら、1~2月にも観光客を呼び込める。平坦な地形だから、ウオーキングにも最適である。

 観光用のハイビスカス園がある。農家の菊栽培用ハウスも観光客が入れるようにすれば、農家は入場料収入も入る。菊だけでなく多様な花、季節ごとの花を出荷用・観光用に栽培すれば、専業農家としてやっていける。

 沖縄には原発が無い。放射能汚染の心配は全くない!!!!! 伊江島牛は近年高級牛として知られてきているそうだが、正直まだ知名度は低い。米軍基地を取り返し、牧草地にすれば、島の西側は放牧に適している。軍用地収入が無くなっても、充分やって行けるのではと思う。緑の草原と青い海を眺めながら、伊江島牛肉を満喫できるレストラン、全て伊江島で採れた農作物や肉、魚しかださないレストラン(もちろん無農薬・有機栽培で作られた安全100%の食材が売り物)は本土の観光客には魅力である。

 水道水は海底パイプで沖縄本島から来ている。電気や電話線も海底ケーブルでつながっている。軍事基地のおかげ?で島のインフラは整っている。これまで散々被害・犠牲をこうむった代償としてのインフラ整備だ。もう遠慮なく、「明日から基地はいりません」「オスプレイの危険な訓練を認めない」と言う資格はある。

2013年10月18日 (金)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 15 伊江島の阿波根昌鴻さん

日本のガンジー・阿波根昌鴻(しょうこう)さん

 「ヌチドウタカラの家」、館長・謝花悦子さんのお話、資料やガイドブックなどで学んだ阿波根さんについて書きたい。まず最初に、自分の勉強不足を恥じたい。あまりにも阿波根さんの人となり・闘いについて知識不足である。これから勉強する自分のてがかりの積りで、表相的に学んだ阿波根さんについて書く。

 阿波根さんは沖縄戦で廃墟とかした伊江島を農業で復興させようとした人である。現在は米軍演習場に奪われている土地のかなりの部分を戦後こつこつ買い求め、農地にしていった。デンマーク式の農民学校を建て、島の青年がそこで学び、農業実習をして、自立した農民として伊江島で生きていけるようにする、それが阿波根さんの夢であった。

 その夢を打ち砕いたのが米軍である。1954年、米軍は150万坪の土地接収と民家152戸の立ち退きを通告。翌55年、完全武装の米兵300名が伊江島に上陸。阿波根さんたちが住む真謝部落の測量を開始し、ブルドーザーで家屋や農地を破壊していった。

 伊江島は”水飢餓”とかつて呼ばれた。平坦な土地であるが、水の確保が難しく貧しい村であった。農地を奪われたら、餓死するほかない。命と生活をかけた闘いの中心にいたのが、阿波根さんである。

 平和憲法の本土から切り離された沖縄。軍政府の沖縄本島からすれば離島である伊江島。完全武装の米兵に非暴力で立ち向かった阿波根さんたちは、孤立無援の中で必死に闘ったが、射爆場が作られ、55年5月から射爆演習が始まった。キビ畑で6歳の少女が銃撃されたり、爆弾でカヤの野原が焼ける、生きるために演習場にされた自分の農地に立ち行った農民80数名が逮捕され、32名が即決軍事裁判で有罪判決、30歳のキヨさんが疲労と栄養失調で死亡、真謝地区の住民80%が栄養失調と、極限状況まで追い詰められていく。

 この窮状を訴えようと始まったのが有名な”乞食行進”である。本島のすみからすみまでほぼ1年をかけて、阿波根さんたちは米軍の不正・島の窮状を訴えて回った。沖縄本島でも基地拡張が進み、この”乞食行進”が島ぐるみ土地闘争に発展していった。

 1966年、米軍は2基のホークミサイルを伊江島に陸揚げ。それまでに米軍は核模擬爆弾を落とす訓練をしていることから、危機感をつのらせた阿波根さんたちは体を張ってミサイル撤去闘争を展開、二日後には撤去させることに成功している。

 1967年、阿波根さんは基地に隣接する自分の土地に「団結道場」を作り、そこで島内外の人が戦争と平和について学び語らい、また基地撤去の闘いの拠点にしようと、道場の起工式を行う。米軍の妨害、建設作業をする5名の逮捕などがあったが、1970年に完成。以後この団結道場が本土から来る人も含めて反戦平和の学ぎの場となっていった。

 1984年、反戦資料館「ヌチドウタカラの家」と「わびあいの里」を開設。2002年、101歳で亡くなるまで、訪れた修学旅行生や来館者に自分の闘いや戦争体験・平和について・非暴力で行動する信念について語り続けてきた。

 『教えられなかった戦争・沖縄編ー阿波根昌鴻・伊江島のたたかいー』という映画に、阿波根さんの生き方・たたかいが詳しく描かれている。(もっとも僕は「わびあいの里」でフェリーの時間待ち15分間しか見ていないが)

 来年3月、再度伊江島を訪れる積りである。上記の映画を全部見ること、毎年3月に行われる学習会に参加すること、もっと多くの伊江島の人々にお会いし本音を聞くことが目的である。

2013年10月16日 (水)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 14 伊江島・阿波根昌鴻さんの「ヌチドウタカラの家」を訪ねて

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 9月29日、ずーと以前から行きたいと思っていた、あこがれの阿波根昌鴻さん「ヌチドウタカラの家」(反戦平和資料館)を始めて訪問した。

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 この施設全体を「わびあいの里」と言い、「やすらぎの家」と「ヌチドウタカラの家」から成り立っている。先ず「やすらぎの家」に入り、館長の謝花悦子さんにお会いした。上の写真。

 友人の富田君(宜野湾市民となり、沖縄での運動を担っている)が事前に電話しておいてくれたおかげで、手作りのカレーをごちそうになり、色々お話を伺った。ちょうど京都から幼稚園の園長先生達も来ており、一緒にカレーをいただきながらお話を聞いた。このグループは、毎年子どもたちや家族に伊江島で生活体験・阿波根さんの闘いに学ぶ機会を提供する企画をしている。

 謝花悦子さんはこの「やすらぎの家」で、園児・小中学生・高校生・一般の来館者に阿波根昌鴻さんの闘い、伊江島の土地闘争、戦後の米軍支配と基地被害、現在の沖縄の闘いなどを、分かりやすい言葉で語るのを自分の使命としている。

 年をとったので一日に何組もあれば疲れるとこぼしておられた。現在では車いすが必要となり、手のしびれがひどくなって本島の病院で手術するため、この日午後3時のフェリーで本部に向かわれた。(実は僕も同じフェリーに乗ったので、船内でも色々個人的にお話をすることができた!)

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 「ヌチドウタカラの家」(反戦平和資料館)の展示で一番ショックを受けたのは、米軍の悪逆非道。基地建設のため、住民の家に放火。ブルドーザーで破壊。住民射殺。車両での引き殺し。農作物や畑の踏み荒らし。

 命を奪い、負傷させ、財産(土地・家)を奪い、軍事演習で被害を与えても、一切謝罪はおろか、補償もない!

 抗議し、抵抗する者には暴行を加え、逮捕・連行。1945年から60年代まで、「これが自由と民主主義のアメリカ?」がやることかと信じられないほどの不法・犯罪行為が、伊江島では行われていた。

 農地を奪われ、食べるものも無くなり、多くの人は栄養失調、なかには餓死した人もいる。誇張でも何でもない。全て事実。展示写真を見ながら、腹の底から米軍への怒りがわいてきた。同時にこうした事実を正確に知らなかった自分を恥じた。

2013年10月15日 (火)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 13 原発と基地、同じ構図の伊江島

巧妙な国の罠にはまった伊江島 原発と基地は金で地域が、

がんじがらめにされる

 本の駆け足で回っただけだが、危険な物を押しつける代償として交付金・補助金・助成金と言う名の金を国がばらまいている実態を見た。

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 城山の中腹に建てられた津波避難と物産店さらには城山展望施設を兼ねた建物。海抜100メートル以上の所にあり、本当に住民のために作るのならもっと下に作るべき。海岸近くの住民が歩いてここまで来るのは大変である。売店は午後4時半ごろ行ったのだが閉鎖されていた。

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 下は演習場に一番近い地区の公共施設。すごく立派な建物だ。写真を探したが、上手く映っていなかったので掲載できないのが残念。

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 伊江港に浮かぶ立派なフェリー。実はこのフェリーは動いている様子はなかった! もう一隻同じフェリーがあり、行きも帰りももう一隻のフェリーで運行されていた。

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 港にある施設。物産センター、観光協会、レストラン、フェリー事務所、資料館など。村の規模に比べて、とても立派な施設である。

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 地下ダムを作り、農業用水を供給する事業が国営で行われている。下の写真、丸いドーム状の施設はその水を配水するためのタンク。

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 写真を撮り忘れたが、別の場所でもこの関連事業が大規模に行われていた。役場の前に置かれていた急患を運ぶための車両(救急車と同じタイプの車だが、急患搬送車)には、防衛施設庁から送られたと明記されていた。

 伊江中学校の体育館を城山の山頂から見たが、市民会館と間違えるほど立派に見えた。

 わびあいの里で購入した平和ガイドブックによると、2002年度の村の歳入に占める基地関連収入は、37%!!!

 農業・漁業設備は国・県から90%助成金が出る。その他100%国からの補助事業も多い。軍用地の賃料は個々の農家に入る。

 原発立地自治体同様、麻薬のように金でがんじがらめにされ、基地なしではやっていけない構造にされてしまっている。オスプレイ訓練反対運動が伊江島で起きない理由はここにある。

 

2013年10月14日 (月)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 12  基地警備員

演習場入口を訪ねたある農家の対応

 おばあさんに教わった方向に進んだが基地ゲートが何処にあるかよくわからなかったので、ある農家で訪ねた。若い男の人に訪ねたが、60代のお父さんが出てきて、「ダメですよ。貴方は一見して本土から来ていると分かるから、絶対に入れてもらえないですよ]と言う。草刈りの地元の人と一緒だったら入れるかもしれないとも言う。

 短いやり取りだったが、なんとなく警戒しているようだ。後で分かったが、この家はゲートに一番近いので、恐らく色々な人が訪ねてくるのだろう。歓迎されていない雰囲気のように思われた。

「写真撮影禁止」

 

 ダメもとでゲートに進んだ。

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 ゲートを抜け赤い車止めまで進むと、警備員が出てきた。案の定、「立ち入り禁止」と告げられる。基地内の写真をそこで撮ろうとすると、「ここは写真撮影禁止!」と厳しい声で言う。

 これまで何回も沖縄の基地の様子を写真に収めてきたが、このように緊張した雰囲気で厳しく禁止されたのは初めて。民主主義の時代から植民地・軍支配の時代に戻ったかの感がした。ゲートまで戻り、そこから写真を撮ったが、この時は文句は言われなかった。

 ゲートから警備員詰め所までの道路は基地内であるが、アメリカの領土ではない。伊江島の農民の土地である。恐らくこの屈強な警備員は伊江島の人だろう。本島からのフェリーの本数は少なく、通勤は不可能である。銃剣とブルドーザーで奪われた土地を、奪われた孫の世代がアメリカ海兵隊のために守っている。なんともやりきれない構図だ。

2013年10月13日 (日)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 11  伊江島 不思議な軍用地

観光用地図では伊江島の本当の姿は分からない

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 島の西側薄茶色の部分が金網に囲まれたアメリカ海兵隊演習場。さらに伊江島空港右上の橙色三角の地点が通信施設と宿舎。やはりここも金網で囲まれ基地と分かる。伊江島空港より長い左側の滑走路は、米軍補助飛行場と記載されているが金網で囲まれていず、行ってみたら農地になっていた。

 島の最西端に灯台がある。写真の地図で赤い丸の地点。ここを目指して行ったのだが、道に迷い、白い農道を進んだら基地とぶつかった。昨日のブログで海兵隊演習場と金網の写真を掲載したが、そこは灯台の右側緑の部分である。牧草地とさとうきびの農地が広がるのどかな風景の所だった。ここで一人の農家の婦人と会い、お話を聞いた。

 彼女との会話を紹介する前に、平和ガイドブックの「現在図」の写真を見せたい。

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 濃い茶色が観光用地図でも示されている演習場。「訓練場」と記載されている。平和ガイドブックでは、旧米軍射爆場および垂直離着陸機・ハリアーバッド基地となっている。

 阿波根さんについて触れるところで詳しく射爆場で何があったのか書きたい。現在は爆撃訓練としては使われておらず、オスプレイの訓練場となっている。

 

 薄い茶色の部分も軍用地!

 島の中央部の薄茶色の部分は、城山(たっちゅう)や中学校・住宅地に近い。城山の山頂から眺めると、のどかな農村風景に見えた。

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 上の写真右側から左側奥が軍用地と思われるが、山頂から見ても実際に車で走っても全く軍用地とは思えない! 畑・畑であり、貯水池や水道タンクがある。

 真ん中薄茶色の部分も農地となっており、観光客が必ず訪れる湧出(ワジー)も軍用地に含まれる。

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 上の写真がワジー海岸。下も。

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 大阪から修学旅行で350名以上の高校生が民宿に宿泊して、民宿のおじさんやおばさんに連れられて見学に来ていた。

 ここも軍用地に含まれるとは信じがたい! 

軍用地の畑で働いていたおばあさんとの会話

 灯台近くで道に迷い、金網にぶつかった話しに戻る。たまたますぐ近くの畑で草取りをしているおばあさんの姿を発見し、車から降りて「基地の正門はどこですか?」と尋ねた。

 すぐ近くと教えてくれる。オスプレイの訓練についても訪ねた。夜10時過ぎまで訓練する時もあり、騒音がひどい。危険だと、話された。この人なら自分がオスプレイ配備反対・高江オスプレイパッド建設反対行動のために沖縄に来ていることを話してよいと判断し、正直に自己紹介した。

 おばあさんは僕を信用してくれたのか、本音を語ってくれた。「今は息子が農業をやっている。私は手伝うだけ。しかし私は基地が無くなってほしい。孫たちのために平和な島であってほしいと思っています」

 想像だが恐らく息子さんは軍用地代が入るから基地に反対していないのだろう。息子さんに遠慮しているような話しぶりが感じられた。

 基地の写真を撮りたいと言うと、今日は中に入れますと言う。日曜日は基地内の牧草を採りに行ける日なので、今では誰でも入れますよとまで説明してくれる。

 これはチャンスだと、話を切り上げ、教えられた正門方向に向かった。

 

2013年10月12日 (土)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 伊江島 矛盾その2

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 写真の基地は米軍通信隊。鳥井の看板・金網・立ち入り禁止の警告看板と、典型的な米軍基地である。

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 星条旗は日章旗の影に隠れているが、よくある基地風景だ。この通信隊はまわりは畑や草原に囲まれ、村の中心部や城山(たっちゅう)にほど近い所にある。訓練時に米兵が寝泊まりできる宿舎もある。しかし面積は狭い!

 この基地の前にサッカーができる草原(ゴールポストも2つあった)がある。日本人集落からは離れているので不思議に思ったが、写真はとらなかった。あとで平和ガイドブックの地図を見ると、このサッカー場だけでなくこの辺り相当広い面積が軍用地となっている。

 基地の本島の実態が分かる地図を写真にとり、次回ブログに掲載したい。伊江島観光協会でもらった地図もブログに掲載し、対比すれば、軍用地の不思議(?)が理解しやすい。

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 4枚の写真は激しいオスプレイの訓練が行われている演習場。この日は日曜日だったので訓練が無く、基地内に土地を持つ農家が牧草用の草を取りに出入りできる。金網の外は畑と緑の牧草地が広がっている。

  写真上から2枚目のメインゲートを探すために、最初畑の中の農道を車で入って行った。農道が切れぶつかったところが下の金網(基地)。

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 いよいよ目指す所に来たなと、緊張した。行きどまりの農道から引き返す時、たまたま畑で作業しているおばあさんがいたので、車を止め、話しかけた。このおばあさんのと会話は次回に書くが、後で平和ガイドブックの地図を見ると、このあたり一帯の畑や牧草地も全て軍用地となっている。しかし写真のようなおどろおどろしい金網や警告看板が全くなく、農家の方が自由に作業し、観光客も入っていける。

 軍用地は土地代が入る!

 伊江島の矛盾はここから来ている。完全に土地を取り返すと、基地収入が入らなくなる。軍用地のままにしておけば、土地代が入り、さらにそこで農業もできる。2重の収入となる!

 この事実は「わびあいの里」館長・謝花さんから聞いた。阿波根昌鴻さん達が命がけで土地を守る闘いをした伊江島の農民が、今では奪われた農地を取り返す努力をせず、基地収入にあぐらをかいている。僕は一人の農家のおばあさんと話をしただけなので、本当の農家の方の気持ち・本音は分からない。「あぐらをかいている」という表現は失礼になるかもしれない。しかしなんともやりきれない悲しい気持ちにさせられる。

2013年10月10日 (木)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 9 伊江島の矛盾

伊江島の矛盾

 充分に勉強して行かなかったのが幸い?して、伊江島が抱える矛盾・不思議が始めて訪れた僕に、強烈に見えてきた!

 伊江島訪問の大きな理由は、「わびあいの里」へ行って阿波根昌鴻さんの土地闘争・基地拡張反対運動を学ぶこと、さらに米軍基地の実態を自分の目で見ること、激しいオスプレイの訓練に対して地元の人がどのような考えを持っているかを聞くことだった。

 「あれ! 米軍基地が見えてこない! 」 不思議なことに伊江島の35%が軍用地であるのに(後で知った)基地の姿が見えてこない。車で色々な所を回ったが、島の3分の1以上を米軍にとられているにも関わらず、軍事基地のにおいがしない!

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 伊江島空港とあるので近づくと、ターミナルは閉鎖され物置になっていた。わびしさがただよう。

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 「立ち入り禁止 沖縄県知事」の標識をみて、ここは沖縄県の所有地かと思った。よくあるムダな空港を作り、利用者がいないので大赤字、やがて閉鎖の典型だろうと想像した。

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 「わびあいの里」で購入した平和ガイドブックを家に帰って読むと、ここはかつては日本軍が土地を接収して飛行場とし、米軍が攻めてくるとき自ら滑走路を破壊、米軍が島を占領すると直ぐ修復して本土空襲に使い、本土復帰以降に返還されている。

 島の中央部の一等地が空き地として放置されている! もったいない! そもそもなぜ県・村は必要もないのに、民間空港を作ったのだろうか? その金(ターミナルの建物と駐車場建設費用)はどこから出たのだろうか?

 この不思議な空港の隣が米軍補助飛行場だが、フェンスもなく農地となっているので自由に出入りでき、全く軍用地とは思えない! 読谷村のように、何故村当局は返還を求めないのだろうか?

 

 

2013年10月 9日 (水)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 8 伊江島その2

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 この岩山(たっちゅう)の山頂で話した娘さんは、この山のすぐ近くで生まれ育ち中学校までは伊江島で育った。高校は島にはないので、本島へ。さらに大学は本土へ。東京で働いていたが、昨年沖縄にユーターンして、今は那覇市で働いている。

 僕が高江からここに来たと話すと驚いた様子だった。オスプレイの騒音が気になりませんかと尋ねたところ、「別に」と素っ気ない返事。基地問題にはあまり関心がないようだ。

 伊江島の米軍基地の問題や、激しいオスプレイの訓練についても、家庭内ではほとんど話題にならないとのこと。阿波根昌鴻さんのことや伊江島の歴史についても、あまり知らない。現在の伊江島の産業や水問題について質問したが、全く知識がない。

 高校時代から故郷を離れているから無理もないが、普天間基地辺野古移設やオスプレイ配備でこれほど沖縄中が反対し沖縄のマスコミが大きく取り上げているにも関わらづ、彼女の反応はあっさりしたものだった。

 昨年ピースボートで一緒になった宜野湾市の若い女性もそうだった。両親が米軍基地で働いている関係もあり、基地問題にはクールだった。

 僕が普天間基地ゲート前行動や高江の座り込みに参加している話をすると、「沖縄の人があまり参加しないから、本土の人は不満でしょう」と言う。

 僕は「そんなことはありませんよ。沖縄の人が中心となりたくさん参加していますよ。」「伊江島で反対運動が無いのは、原発と同じです。本土でも原発立地では、反対運動をすれば村八分になり、原発反対を叫ぶのは難しいです。)と説明した。

 おそらく彼女は沖縄戦での伊江島の犠牲、米軍支配下の悲惨な伊江島の歴史、阿波根昌鴻さんたちの土地闘争について、学校でも家庭でもきちんと教えられなかったと思われる。沖縄における平和教育の実態の反映でもあるし、基地経済に依存している伊江島の反映と思う。

 

沖縄(普天間・高江・伊江島)

2013年10月 8日 (火)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 7  伊江島

あこがれの阿波根昌鴻さん故郷・伊江島に初めて訪れる

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 名護市東海岸やちゅら海水族館から何度となく目にしてきた伊江島、阿波根昌鴻さんが米軍の土地取り上げに抗して、島ぐるみ土地闘争を展開したあこがれの伊江島に、沖縄を訪問して10数回目にして始めて行った。

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 9月28日、高江を後ろ髪を引かれる思いで出発し、本部港15:00発のフェリーに乗った。車で行くとフェリー代が高くなるが、効率的に見て回るため、友人の車を持って行った。下の写真は、伊江港に近づいて撮った。独特の形をした山は、城山(地元の人は”たっちゅう”と呼ぶ)。沖縄戦の時、城山に張りめぐらせた軍地下壕に立ちこもる日本軍と米軍が住民を巻き添えにしながら、死闘を繰り返した激戦地でもある。

 民宿に着いてすぐこの山に登った。海抜172メートルの岩山である”たっちゅう”は、車で登山口まで行けば誰でも簡単に登ることができる。僕の足で片道10分ぐらい。

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 山頂から東方面。海の向こう側の山は本島・名護・本部・今帰仁方面の山々。

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 南側方面。海に伸びる堤防のあるところは、伊江港。この辺りが伊江島の中心部。右手の大きな建物は中学校。役場は左手緑の向こう側にある。

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 西側方面。写真左手のさらに奥方面に、米軍基地が広がっている。

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 北側の畑と真ん中のプールのようなものはため池。一見して分かるが、この島は農業が盛んである。島の経済は農業・漁業・観光、そして後で詳しくレポートする基地交付金で成り立っている。

 伊江島に行く前、沖縄に住み、沖縄の住民となって基地と闘っている友人に伊江島の状況を聞いていた。オスプレイの激しい訓練が行われているが、伊江島では反対運動が無いことを。

 さらに島の東側の人は騒音被害も少なく、無関心な人が多いと。西側の訓練場近くの人々とは温度差があるとも。

 ”たっちゅう”で約一時間いた。若い娘さんが山頂でアイフォンに向かって長い時間なにやらメールを打ったりしていた。その娘さんは島の出身で、東京に出ていたがユーターンして、今は那覇で生活をしているとのこと。休暇で実家に帰って、山に登ってきたそうだ。

 この娘さんとのやりとりが、今の伊江島の現状を象徴していると思う。次回、詳しくその内容を書きたい。

2013年10月 7日 (月)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 6 高江続きその2

かつての現場リーダー・山城博治さんの不在

 これまで高江に行くと、必ず山城博治さんがおられた。しかし7月の参議院選の後、沖縄県平和運動センターの議長になられ、立場上現場に張り付いていることができなくなり、彼の元気なお顔を見ることができなかったのは残念である。

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 上の写真は今年4月静岡市に来られた時のもの。静岡県でも夏の参議員選で勝手連的に山城さんの選挙運動をしたが、残念ながら当選には及ばなかった。

 高江の現地闘争に彼の不在は大きな痛手だが、嬉しいことに熱心な人たちが複数そのあとを継いでくれている。現場で体を張り、工事阻止の運動を持続するのは大変なエネルギーと時間・お金を必要とするが、複数の人たちが山城さんに変わってその任を荷なってくれている。たまにしかいけない僕は、申し訳ない思いでいっぱいである。

 

2013年10月 6日 (日)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 5 高江続き

映画「標的にされた村」を見て、高江にかけつけてくれた3人と高江に足を運んでくれる人々

 9月28日午前、沖縄県南部から3人の方がたくさん差し入れを持ってメインゲートに来てくれた。那覇市で上映された映画「標的の村」を見て、心を動かされたとのこと。60歳前後の男性と女性2人。「黙っていてはダメ。声をあげるべきだ」と高江の闘いに共鳴して、かけつけてくれた。

 高江にはこのように色々な人が、差し入れ・励まし・見学に来てくれる。水曜日は那覇からたくさんの食べ物を作ってお昼をふるまってくれるNご夫妻が来てくれる。もう4~5年続いている。今回もお会いできた。

 本土から高江の状況を視察に来てくれた大学の先生がた。3年前に高江で一緒に活動した青年が、高江が縁で沖縄の女性とカップルとなり、今は沖縄に住んで定期的に高江に来てくれている。彼の姿を発見してとてもうれしい気分になった。

 遠くから来た者は通称「つーたんや」と呼ばれる住民の会の家に宿泊する。今回は京都からきた病院職員の若い女性、地元沖縄の大学生、本土から沖縄へさとうきびの季節労働者としてやってきた青年と一緒になった。

 食事は僕が担当。若者たちと食事をするのは楽しい。ただ状況が厳しいので、ゆっくりお酒を飲んで、楽器演奏を楽しむゆとりがないのは残念であるが。

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 多くの人に高江に来てほしい。座り込み参加・差し入れ・激励・見学・観光のついでの立ち寄り。30分、1時間でもいい。すばらしい自然とそれを破壊しようとしている現場を見てほしい。

2013年10月 5日 (土)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 4 高江

標的にされた村・高江の粘り強い闘い

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 沖縄県北部やんばるの森に広がる総面積7,800ヘクタールの米軍北部訓練場。やぐらのように見えるのは、訓練指揮所。

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 この訓練所に22か所のヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)がすでにあるにもかかわらず、新たに高江集落を取り囲むように6つのヘリパッドが作られようとしている。オスプレイの訓練のため。残念ながら1つは作られてしまった!

 しかし住民・支援者たちはこれ以上は絶対に作らせまいと、24時間体制で工事阻止の粘り強い闘いを続けている。上の写真はメインゲート前で業者の出入りを阻止する活動の様子。

 僕が高江に足を運ぶようになったのは、退職して2年目、4年前の夏からである。今回で8回目となった。

高江の魅力と困難な闘い

 高江は人を引き付ける魅力がある。ノビチゲラ・ヤンバルクイナといった絶滅危惧種が生息する緑豊かな自然。そして人。2008年から集落の平穏な生活を守るために闘っている高江の素朴な人々。沖縄中から駆け付け、長い闘いを支えている沖縄の人々。本土から沖縄に移住し、今では地元の人間になりきって住民と一緒に頑張っているヤマトンチュウ。そして本土から流れるようにやって来るちょっと変わった若者達。

 僕のような年金生活者で本土から何度も足を運ぶリピーターも多い。今回も以前一緒になったと東京の人と再会した。

 高江は那覇から車で3時間。この遠さが闘いを困難にしている。地元沖縄の人でも、工事の業者が来たからと直ぐかけつけられない。

 距離の遠さが、気持ち・関心も遠いものにしている。辺野古は有名だが、高江と聞いてもどこにあるのか、どんな問題が発生しているのか、沖縄の人でもよく知らない人が多い。まして本土の人間は。。。。。。。

 北部訓練場はどこからでも入れる。フェンスがあるのはごく一部。業者はすきあらばどこからでも入ろうとする。このことも完全に工事を阻止することを困難にさせている。

 僕は25日から28日昼過ぎまで高江に滞在したが、残念ながらその間もN4地点では作業が続けられていた。作業員達はそれ以前に森のどこからか侵入し、基地の中に宿泊して作業をしているため、止めることができない。

 現在の監視活動は、大型機材やジャリを運び入れさせないことを主眼においている。さらにはこれ以上の作業員を侵入させない、入った作業員を簡単に出させないことにも。

 熱心に活動されているMさんによると、業者を入れさせないと硬く決意した20人がおれば完全に阻止できる。しかし毎日その数を維持するのは極めて困難である。

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 業者は防衛施設庁と連携し、夜間に大型機材やジャリを積んだダンプカーを運び入れることも狙っている。それを阻止するため、メインゲート前では車の中に泊りこんでの闘いが続けられている。

2013年10月 4日 (金)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 3

ゲート前で感じる沖縄

 9月24日、友人の富田君がキャンプフォスターのゲート前でも抗議行動が行われているからと誘ってくれた。朝6時から8時まで毎週火曜日にやっているとのこと。

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 このグループは退職教員が中心で、参加者は少数である。この日は僕を入れて5名。英語のプラカードを作成し、ゲートに出入りするアメリカ人に静かに訴えている。下のプラカードの意味は「何故大きなアメリカが小さな沖縄をいじめるのですか? 私たちもアメリカ人同様に穏やかに暮らす同じ権利を持っています」。

 実はこのプラカードを持って僕はゲート前に立っていた。その時気づいたこと・感じたことがある。

 ショックだったのは、基地の中に入ろうとした2人の地元女性の姿だった。一見して家政婦の仕事をされていると分かった。身なりは質素。貧しさを感じさせる雰囲気を漂わせている。ひとりの若い女性はジャージ。ほぼ100%車でゲートに入って行くなかで、二人はとぼとぼ歩いて入って行った。一人の40代ぐらいの女性は警備員のチェックを受けた後、かなり離れた米兵の宿舎方向に消えていった。

 若い女性は検問所から引き返してきたので、「中に入れてもらえなかったのですか?」と尋ねると、そうではなく芝生を横切って歩いて行くと濡れるので、別の入口から入るとのこと。ほんの短い会話を交わしただけだったが、何故か僕は植民地を感じた。生きていくために、異民族・支配者の家政婦の仕事をしなければならい現実。アメリカ軍政府から日本に復帰して40年もたつのに、このような現実を知り、なんともいえない悲しみが込み上げてきた。

 朝7時になると、日米の国歌が放送で流れ、両国旗が掲揚される。日本人警備員が直立不動で、国旗掲揚台に向かう姿を見て、複雑な感情を持たざるを得なかった。生活のため、アメリカの国歌と星条旗に忠誠を誓う。一方抗議行動をする同じ沖縄県民が、黄色い線より中に入ろうものなら、「ここからは立ち入り禁止だ」と制止する。僕は高江の北部訓練場メインゲートで写真を撮った時、「出ろ!逮捕するぞ!」と脅された。下の写真は黄色い線より中に入って撮ったその時の写真。

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 鉄のゲートの中ではなく、ゲートに続く道路上でも「ここからは米軍基地だから立ち入り禁止」と制止する、腰に銃を持った沖縄出身の警備員。この土地は沖縄のもの。広大な面積の沖縄の土地を米軍に奪われ、ゲート前の道路でさえ立ち入り禁止。

 沖縄が置かれている悲しい現実に怒りを覚える。

2013年10月 3日 (木)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 2

米兵の反応と基地に出入りするアメリカ人の様子

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 普天間基地に出入りする米兵・軍属・家族の表情を観察した。無表情をよそおう者、いやだなーと不愉快そうな表情を浮かべた者、明らかな敵意が感じられる者、様々である。

 ほぼ毎日ゲート前を通過するたびに、「マリーンズ ゴーホーム」 「ヤンキー ゴーホーム」「マリーンズ ゲットアウト」「アウト オブ オキナワ」 と叫ばれ、「ノーオスプレイ」と書かれたプラカードを突き付けられるのだから、愉快なはずがない。

 「貴方達は歓迎されていない」と抗議行動を続ける効果が表れてきている。敵意に囲まれた基地は長く維持できない。昨年9月末には一時的基地封鎖に成功したが、万が一オスプレイが墜落し、県民に犠牲者が出たら、普天間基地完全封鎖に発展するだろう。

 ゲート前でプラカードを持ち、「マリーンズ ゴーホーム」と叫んでいると、時に身の危険を感じる時がある。国道から基地へ右折して入る車の中に、ものすごいスピードで突っ込んでくる車がある。日本人ドライバーなら考えられない猛スピードでの右折だ。警察官が立っているのに、彼らは全く無視。引かれたら大事故につながるスピードである。敵意まるだし。こちらを人間と見ていない。

 中には手を振ったり、にっこり笑う者、こちらをからかうそぶりの者もいる。ほとんどが窓を閉めているので、また信号待ちの状態ではないので、話しかけられる状況じゃないが、米兵一人ひとりに説得できたらなーと思う(もっと英語を勉強する必要があるが。。。。)。

2013年10月 2日 (水)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 1

普天間基地ゲート前でオスプレイ・基地撤去を求めて粘り強く闘う人達

 9月23日、24日、30日、僕も基地ゲート前での行動に参加した。そこで一番感じたのは、世界一危険な普天間基地撤去、オスプレイ配備撤回を求めて、土日を除く毎日ゲート前行動に参加している沖縄の人々の粘り強さだった。

 昨年の強行配備からほぼ一年、それは続けられ、おそらく今後も完全撤去の日まで続けられるだろう。僕のようにたまにしか参加しない者には、頭が下がる思いである。

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 23日18:00から19:00まで、毎週月曜日夕方、クリスチャンの方々による行動があるとのことで、それにも参加させてもらった。下の2枚の写真は、「普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会」の活動の様子である。

 

 讃美歌や聖書の言葉、祈り、we shall overcome などを、基地撤去・平和を心の中で願いながら静かに米兵達に届ける。決して「ヤンキゴーホーム」などと叫ばない。

 子どもや若者も参加しているのが印象に残った。このゴスペルを歌う行動は福岡市や国会議事堂前でも行われているそうだ。

2013年10月 1日 (火)

沖縄から帰って

昨日沖縄から帰った。沖縄では様々な体験・学習・活動をしてきたが、帰ったら仕事がいっぱいたまり、レポートは明日からとしたい。

 留守の間、原発再稼働に向けての油断のならない動きが進行している。25日、中部電力が4号機について今年度内に再稼働に向けた安全審査の申請をすると表明。

 安全対策工事完了は2015年9月の予定だが、再稼働を速やかに進めるため、早めの申請と思われる。

 沖縄に居る時、中日新聞社からこのことで電話インタビューを受けた。そのときは再稼働の申請と受け取り、「とんでもない。工事が完了していないのに許せない。来年春の値上げ申請に向け、消費者に原発を再稼働しなければ値上げしなければならいほど赤字が続いていると苦境を訴えるポーズだろう」と答えた。

 今朝新聞を読んで、川勝知事や周辺自治体の長は再稼働に直結するものではないとコメントしているが、油断はならない。情報を集め、浜岡原発を考える袋井の会として、どう対応するのか4日の会議で皆と相談したい。

 東京新聞に僕のコメントが載っていたと、ジャナリストの上杉さんから沖縄にいる時電話があった。多分中日新聞にも同じコメントが掲載されているだろうから、今日図書館で確認したい。

 8日間家を開けると、メール・手紙・新聞などチェックすべきものが溜まる。農作業も。ぼちぼち片付けながら、平常の生活に戻りたい。

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