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2013年10月18日 (金)

沖縄(普天間・高江・伊江島)レポート 15 伊江島の阿波根昌鴻さん

日本のガンジー・阿波根昌鴻(しょうこう)さん

 「ヌチドウタカラの家」、館長・謝花悦子さんのお話、資料やガイドブックなどで学んだ阿波根さんについて書きたい。まず最初に、自分の勉強不足を恥じたい。あまりにも阿波根さんの人となり・闘いについて知識不足である。これから勉強する自分のてがかりの積りで、表相的に学んだ阿波根さんについて書く。

 阿波根さんは沖縄戦で廃墟とかした伊江島を農業で復興させようとした人である。現在は米軍演習場に奪われている土地のかなりの部分を戦後こつこつ買い求め、農地にしていった。デンマーク式の農民学校を建て、島の青年がそこで学び、農業実習をして、自立した農民として伊江島で生きていけるようにする、それが阿波根さんの夢であった。

 その夢を打ち砕いたのが米軍である。1954年、米軍は150万坪の土地接収と民家152戸の立ち退きを通告。翌55年、完全武装の米兵300名が伊江島に上陸。阿波根さんたちが住む真謝部落の測量を開始し、ブルドーザーで家屋や農地を破壊していった。

 伊江島は”水飢餓”とかつて呼ばれた。平坦な土地であるが、水の確保が難しく貧しい村であった。農地を奪われたら、餓死するほかない。命と生活をかけた闘いの中心にいたのが、阿波根さんである。

 平和憲法の本土から切り離された沖縄。軍政府の沖縄本島からすれば離島である伊江島。完全武装の米兵に非暴力で立ち向かった阿波根さんたちは、孤立無援の中で必死に闘ったが、射爆場が作られ、55年5月から射爆演習が始まった。キビ畑で6歳の少女が銃撃されたり、爆弾でカヤの野原が焼ける、生きるために演習場にされた自分の農地に立ち行った農民80数名が逮捕され、32名が即決軍事裁判で有罪判決、30歳のキヨさんが疲労と栄養失調で死亡、真謝地区の住民80%が栄養失調と、極限状況まで追い詰められていく。

 この窮状を訴えようと始まったのが有名な”乞食行進”である。本島のすみからすみまでほぼ1年をかけて、阿波根さんたちは米軍の不正・島の窮状を訴えて回った。沖縄本島でも基地拡張が進み、この”乞食行進”が島ぐるみ土地闘争に発展していった。

 1966年、米軍は2基のホークミサイルを伊江島に陸揚げ。それまでに米軍は核模擬爆弾を落とす訓練をしていることから、危機感をつのらせた阿波根さんたちは体を張ってミサイル撤去闘争を展開、二日後には撤去させることに成功している。

 1967年、阿波根さんは基地に隣接する自分の土地に「団結道場」を作り、そこで島内外の人が戦争と平和について学び語らい、また基地撤去の闘いの拠点にしようと、道場の起工式を行う。米軍の妨害、建設作業をする5名の逮捕などがあったが、1970年に完成。以後この団結道場が本土から来る人も含めて反戦平和の学ぎの場となっていった。

 1984年、反戦資料館「ヌチドウタカラの家」と「わびあいの里」を開設。2002年、101歳で亡くなるまで、訪れた修学旅行生や来館者に自分の闘いや戦争体験・平和について・非暴力で行動する信念について語り続けてきた。

 『教えられなかった戦争・沖縄編ー阿波根昌鴻・伊江島のたたかいー』という映画に、阿波根さんの生き方・たたかいが詳しく描かれている。(もっとも僕は「わびあいの里」でフェリーの時間待ち15分間しか見ていないが)

 来年3月、再度伊江島を訪れる積りである。上記の映画を全部見ること、毎年3月に行われる学習会に参加すること、もっと多くの伊江島の人々にお会いし本音を聞くことが目的である。

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