長谷川健一さんの講演会に参加して
報告が遅くなったが、9月19日、磐田市豊岡であった長谷川健一さんの講演会に参加した。
長谷川健一さんには、浜岡原発を考える袋井の会はお世話になっている。3年前の結成総会の講師として、さらにその年飯館村訪問の際には案内を、昨年も飯館村を案内していただいた。
「原発に故郷を奪われて その後の飯館村」 と題して約1時間半の講演だったが、パワーポイントを使い、すっかり講演慣れされていたので、メモを取るのが大変だった。要点のみ(覚えているところのみ)、箇条書きでレポートする。
・飯館村はこの先どうなるのか先は見えない。
・しかし政府や電力会社は過去の問題にしようとしている。
・自分は過去にされないよう、事故当時から今日まで、飯館村で何があったのか、写真やビデオに納め記録を取り続けている。放射線量の測定も続けている。将来被曝が原因で村民が健康を侵されたとき、政府や東電に証拠を突きつけるためにも、きちんとした記録を残すことが大切だと考えている。
また色々なところに招かれて講演するのも、飯館村で、福島で何が起きているか、日本中の人たちに知ってもらいたいから、忘れられないようにするためである。
・先日の大雨で飯館村のフレコンバッグ(汚染土や草を入れた袋)が流されたが、自分の前田区でも50袋流された。
・飯館村は原発から30~45キロ離れている。それにもかかわらず、プルトニウムまで降り注ぎ、現在もきのこ類は高濃度に汚染されている。
・菅野村長と自分は今は立場は違うが、以前は酪農農家仲間であり、選挙の時、自分は出納責任者として協力した。いわば右腕の間柄であった。
彼は「村を守る」立場から、住民を早期に避難させず、今では早期の帰還を促進しようとしている。村作りをしてきた彼の気持ちから、村を荒廃させたくない、村に村民が帰ってきてほしいとの彼の気持ちはよく理解できる。
・スピーディーの予測情報は当たっていた。北西の風で飯館村はひどく汚染されていた。しかし、国も県も村もそれを隠し、住民を早期に避難させなかった。大学の先生(長崎大の山下教授、福島県立大の副学長になった人物を指すと思う)が、「安全だ」というので自主避難した住民が戻ってきた。
・京大の今中先生が汚染調査をし、それを村長に報告して避難すべきだと提言したが、村長は受け入れなかった。
・事故から1か月後、国は飯館村を計画的避難区域に指定したが、その前日、村ではPTAの会合が開かれ、当局は「安全宣言」をしていた。
・結局一番遅く非難した飯館村の住民は避難を受け入れてくれるところがなく、皆バラバラになった。
・自分の家族は4世代が住んでいたが、仮設は狭く、分かれて住まざるを得ない。息子は酪農を継ぐと決意し、これから規模を拡大しようとしていた矢先に事故が起きた。
・4月30日、牛をどうするか決断を迫られた。政府はとさつ処分しろという。自分はここでは酪農を続けることは不可能だと思い、廃業することに決めた。
・自分が一番恐れていたのが自殺者が出るのでは?だった。残念ながら恐れていたことが起きた。南相馬の酪農家で「原発さえなければ」と書き残して自殺した彼はよく知っている酪農家仲間だった。
・飯館村の最高齢・102歳のおじいちゃんも自宅を離れたくない、避難すれば自分が足手まといになると自殺した。
・前田区は56戸。自分は区長として、バラバラになってはダメ、仮設はまとまって住めるようにすべきだと考え、伊達市の仮設に24戸の地区の住民が住んでいる。
・自分の母は認知症になった。しかし、地区の人たちが同じところに住んでいるので、徘徊しても教えてくれる。助け合うことができる。妻は集会所の職員を務めているが、住民の協力で助かっている。
・飯館村でも除染がおこなわれているが、山が多い村は除染してもすぐもとに戻ってしまう。モニタリングポストが設置されるところは土を入れ替え、徹底的に除染するから数値が低いが離れたところで計測すると上がる。例えばモニタリングポストでは0,9でも、4メートル離れたところでは2,4、10メートルでは3マイクロシーベルトになる。
・国は少ない数値のデータで病気と原発事故との因果関係がないようにするので、自分で計りデータを残している。
・田んぼの除染は一番栄養のある表土を5センチ剥ぎ取り、栄養の無い山土に入れ替えている。その除染した土を入れたフレコンバッグで、農地の四分の一から三分の一が仮置き場となっている。
・年1ミリシーベルト以下が国の基準であったが、村長は5ミリでも帰還できるといい、復興計画を立てている。
村の要請で今では国も5ミリでも帰還できるというようになった。チエルノブイリでは5ミリは強制移住。レントゲン検査区域でも5,2ミリが一般人の制限値である。
・飯館村の住民は避難が遅れたので、福島県では一番被ばくしている。今中先生の調査では、平均7ミリシーベルト被ばくしている。これは原発がある双葉町の住民よりも高い。
自分は13ミリ被ばくしている。子どもの被ばくの実態は分かっていないが、心配だ。
・県や村は、被ばくに関して甘い考えを持っている。福島の子ども104人が甲状腺がんとなった。妻はこれまでなかったのに喘息になり入院した。村にはスズメやトンボがいなくなった。
・昨年、飯館村民救済弁護団(弁護士95人)ができ、東電を相手取って、「原発被害糾弾 飯館村民救済申し立て」訴訟を起こした。自分はその団長をやっている。原告は3,029人。(村の人口は6,200人)。村当局の妨害があったが、村民の半分が原告になってくれた。
・村長は2017年避難解除にしたいと言っている。しかし子供や若い人は戻らないだろう。自分は戻りたいと考えている。作物はそばがいいだろうと思っている。手間暇をかけづに、機械で作ることが可能だから。何もしなければ広大な荒れ地となる。しかし戻って農業ができる様にするには現状ではダメだ。作物を作っても、誰が買ってくれるだろうか? 放射能に汚染された作物ができたら、風評被害で売れない作物になった時、それを補償する仕組みにしなければダメだ。
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