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最終回としたが、実は今月27日から3月8日まで沖縄・辺野古・高江・伊江島に行く。従って取りあえず最終回としたい。
いつも沖縄に行って感じることがある。日ごとに、沖縄の人々の新基地建設反対の強い気持ちが高まっている。ゲート前に集まる人々が増えている。
政府は本隊工事着手の既成事実を作り、いくら反対しても無駄だよと、諦めさせる戦略だが、逆に県民の怒りが高まり、実力で阻止する(もちろん非暴力だが)体制が強化されている。
菅官房長官は、宜野湾市長選での勝利で、オール沖縄の反対闘争ではないと主張しているが、それは現場を知らない人のみかたに
過ぎない。
新基地建設阻止において、沖縄では保守も革新もない! 島ぐるみ会議のバスで来る人たちの中には、保守系の元町村長や議会議長さんも多い。農協の幹部もいる。
安倍政権は「どうせ金で片ずく」と沖縄を見くびっているが、とんでもない! 力づくでやればやるほど、沖縄の団結が強固になっている。
工事は遅れに遅れている。本体工事は全くできていない。ゲートに出入りする作業員やトラックは、本体工事のためでなく、米兵の隊舎建設や道路建設関連である。県と名護市の認可が下りないのが遅れの原因だが、詳しくは3月中旬に書くレポートで説明したい。
2月1日(月)午後、ワシントンポスト東京支局長アナさんが辺野古に取材に来てくれた。あらかじめ、山城博治さんに取材依頼の連絡をしてあったようだ。
通訳は織田ユキさん。
アナさんの取材目的は、沖縄の人々が何故かくも辺野古新基地建設に反対しているのかその理由を現場のリーダー山城博治さんから直接聞くことにあった。さらに島袋文子さんへの取材も。
どのようなやり取りになるのか興味があったので、取材の様子を取材した。山城さんはかなり早口で、一気に思いを語る。普通なら通訳が言葉を遮り、断片的にしゃべってもらうことが多いが、織田ユキさんはすごい!
山城さんがかなり長く話したことを、簡単なメモを見ながら英語に直していく。僕は彼女の英語力に脱帽した!
ジェスン・ローンさんも山城さんの話を通訳を通して聞いた。 アナさんが取材して、その後実際にアメリカで記事になった内容は、下のホームページから見ることができる。
2日も朝6時半から、座り込みの様子を取材してくれた。僕たちが機動隊に排除され、オリに入れられている様子も。
彼女はゲート前での様子を取材するだけでなく、神奈川県から親子で座り込みに参加している家族や、ゲート前行動で皆を明るく励ますための歌や踊りをしている小橋川さんも取材したり、カメラに納めていた。
どういうわけか、僕の写真を撮られた。船に乗って、海から基地を見たいというので、僕の車で辺野古の浜に案内した。
知っている船長に船に乗せてもらえるようお願いしたが、事前に連絡をしていなかったので、残念ながらダメだった。カヌー隊を支援する船団のルールがあり、事前に依頼してなければ、マスコミも飛び込みではダメだった。
考えて見れば、当然のルールだ。別の船長にもそんなことを知らずにお願いした自分が恥ずかしい。 浜のテントに安次富浩さんがいたので、アナさんに取材するようアドバイスした。
東恩納琢磨名護市議もいたので、ジュゴンや大浦湾について、さらにはグラスボートについても、彼が一番よく知っていると助言した。東恩納さんの取材は時間がなく実現しなかったのが残念。
下記は通訳の織田ユキさんからのメール。
竹野 昇 様
お世話になります。
先日は辺野古の現場を取材させていただきありがとうございました。
山城さん、島袋さん、皆さんのご協力により、先日無事記事が掲載
されました。ここにそのリンクを添付してお送りします。Webでは
記事一本と、皆さんの声をピックアップして紹介するものと二つに
なっています。
また、日本には新聞自体は届きませんので、替わりに紙面のPDF版を
この後別メールでお送りします。どうぞあわせてご覧ください。
皆様に宜しくお伝えください。またどうぞ宜しくお願いいたします。
ワシントンポスト紙
織田
Protest voices: ‘Okinawans
have been treated like we are disposable for too long’ There is fierce opposition in Okinawa to relocating a U.S.
Marine Corps air station within the small, crowded island. Locals have been
demonstrating against the construction for 18 months. These are some of the
voices from the protest. |
1月31日は日曜日。工事は無いと思われるので、カヌー教室の様子を見に行った。毎週日曜日午前、辺野古の浜で、カヌー教室が開かれている。無料。インストラクターは、カヌーチームのメンバー。
今回はウエットスーツを持参しなかった。沖縄でも冬の海は寒い。臆病な僕は、海保に海に落とされ、風邪をひくのはためらわれたから。メンバーには知った人が多いので、また責任者のKさんに会いたかったので、ただ見に行っただけだった。
写真はそのカヌー教室で出会った、アメリカ・メイン州から3週間の予定で辺野古の座り込みに参加しているジェスン・ローンさん。前日(土)にキャンプシュワーブゲート前で姿を見かけていたが、なんと彼がカヌー教室に参加していた。その時の写真がないのが残念。
彼を含めて6名ぐらいの参加者と同数のインストラクターが、辺野古の浜にいた。インストラクターの中に、高江でもまた2年前の9月にカヌー隊で一緒だった奄美の青年もいた。
急にカヌーに乗りたくなり、ウエットスーツを持ってこなかったが貸してくれるかと責任者のKさんに尋ねると、良いとの返事。急いで浜からテント2に戻り、着替えた。そんなわけで、カヌー教室の様子を写真に収めることはできなかった。
ジェスン・ローンさんは、日本語は分からない。しかしアメリカの湖でカヌーに乗ったことがあるとのこと。奄美の青年に頼まれ、僕が彼の説明を通訳することになり、3人で一つのチームを作り練習した。
この日は快晴。暖かい! これまでの雨と寒さがうそのような天気。カヌー日和だ。浜から離れると海がきれいだ。キャンプシュワーブの基地もよく見える。米軍が昨日持ち込んだ上陸用舟艇の試運転らしきことをやっていた。
上3枚の写真は後日(2月2日撮影)。これまで戦車のような水陸両用車両を使って訓練していたが、このような細長い上陸用舟艇を見るのは初めて。
カヌー教室をやっているときは、ゆっくりゆっくり訓練をしていた。音も聞こえないぐらい静かなエンジン音で。
ジェスン・ローンさんは、多少の経験があるので、覚えが早かった。彼にとり初めての訓練は、船にえい航してもらうときのロープワークと、カヌーの向き。船に対して、右、左後方からカヌーを近づける練習を繰り返し行った。
またカヌーが転覆した時、自分が船から海に落ちた時、どうカヌーに乗るのかの練習を行った。転覆して逆さになったカヌーを起こすのはコツがいる。さらに足が海底に届かない海で、カヌーに飛び乗るのも簡単ではない。
しかし彼は2,3回の練習でマスターできた。即戦力になると、カヌーチームは喜んだ!
僕はたいていのことができるので、この日は漕ぐ練習とジェスン・ローンさんの練習を見守った。約2時間の練習を終え、船を洗い、シャワーを浴び着替えてから、ジェスン・ローンさんともっと話がしたくなり、一緒に食事をしませんか、高江を見学しませんかと、誘ったところOKだったので、午後は大浦パークで食事をとり、カヌチャリゾートを見学し、高江を案内し、さらには夜僕がいつも食事をとる名護曲(沖縄料理レストラン)で夕食を共にした。
上がジェスン・ローンさん(写真は別の日に撮影)。車の中で、昼・夜の食事の時、彼と色々な話をした。真面目な青年だ。沖縄に来るきっかけは、日本山妙法寺が毎年アメリカで行っているピースウオークに参加し、鴨下青年との出会いとのこと。
鴨下さんは、日本山妙法寺の若いお坊さん。高江でも辺野古でも度々会っているから、僕は彼のことはよく知っている。彼は英語がうまい。今、ヨーロッパを回っているらしい。
共通の友人の話題から、互いに親しみを感じ、実にいろいろな話をした。彼は、アメリカで家にペンキを塗る仕事(塗装工)をしながら、反戦平和活動やボランティア活動をしている。沖縄に来たのは初めてだが、広島や京都には行ったことがあるそうだ。 今、泊まっているところは、辺野古浜のテント2.隣の人のいびきが大きく、耳に栓をしてねているそうだ。
沖縄に3週間滞在し、韓国チェジュド(済州島)のカンジュン村にも行く予定。韓国語の会話の本を持っていた。
東京から来ている機動隊が宿泊しているカヌチャリゾートを見学したいというので、高江に行く途中寄った。
高江に着くと、当番のAさんがいた。彼女は大学の先生なので、英語はぺらぺら。僕たちを喜んで迎え入れてくれ、ジェスンさんに約1時間、高江の状況を説明してくれた。
N4のオスプレイ用ヘリパッド。
高江は遠い。名護に戻り、食事を終え、彼をテントに送り、宿の「海と風」に戻ったのは、夜の10時20分過ぎだった。
1月30日午後、高江N1テントに行った。防衛局の工事は完全にストップしていて、相変わらずのどかなで心休まる高江だった。
辺野古の座り込みには大勢の人が駆けつけるが、高江は動きがないので、訪れる人は少ない。それだけに訪問客とテントの中でゆっくり話せる。座り込みに参加している常連さんとも、色々な話ができ、僕はその会話から多くのことを学んでいる。
30日(土)は、台湾の若者3人が来てくれた。最初日本人と間違うほど日本語が上手な若者が、テント当番の琉球大学生と話をした。彼らの会話を聞いていると、その若者は1年間琉球大に留学した経験があり、大学の先生で日曜日にテント当番をしてくれているA先生から高江のことを聞き、ときどき高江に足を運んでいることが分かった。
今回は、台湾の友人と一緒に沖縄旅行に来て、高江に寄ってくれたのだった。彼ら(女性一人を含む)の写真を撮り忘れたのが残念。
台湾は民主化が進み、原発の反対運動も盛んに行われている。浜岡原発再稼働を認めないで署名をお願いしたら、快く署名してくれた。
元琉球大留学生以外の若者は日本語は話せないが、英語で色々なことを話すことができた。難しい内容は、通訳してもらった。
現在の沖縄の状況・沖縄の闘い・日本政府の狙いなど、かなり突っ込んだ説明ができたと思う。
夕方5時半過ぎに韓国の友人「イルカ」君が子どもさんを伴ってやってきた。彼らは車の中で監視当番をしてくれる。明日那覇に戻り、韓国に帰ると言うのに、ぎりぎりまで高江のために活動してくれる「イルカ」君親子に頭が下がる思いだ。
僕は6時ごろ高江を離れ、夕食を済ませて宿の「海と風」に夜8時半ごろ戻った。大勢の人たちがテレビのあるリビングルームにいる。今晩はと挨拶をすると、今晩は、と返事が返ってきたので、そのグループの人たちは日本人だと思い込んでいた。
お風呂に入ってから、ビールを飲むためにリビングルームに行き、話しかけると日本語が通じない。英語で話しかけると、香港から自転車のツーリングを楽しむために沖縄を回っている一行だと分かった。
左すみでカンビールを手にしているのが僕。写真を見ただけでは全員日本人のように見える。
香港の中国人は大陸の中国人と違い、民主化が進み、政治意識も高いだろうと、辺野古の基地問題や沖縄の米軍基地問題を話したが、彼らはあまり興味がない様子。サイクリングを愛する普通の香港人だった。
とても話しやすく、日中友好に繋がると思い、楽しくおしゃべりを楽しんだ。僕も以前はサイクリングを楽しんでいたので、彼らの自転車について質問したところ、香港から持ち込んだものでなく、那覇でレンタルしたとのこと。翌朝彼らの自転車を見ると、新品で本格的なサイクリング用自転車だった。
日本人の僕が、沖縄で本格的サイクリング自転車をレンタルできることを知らなかった!
そういえば、高江でも辺野古でもテント前を通過するツーリストをよく見かける。自分の自転車を持ち込んでいると思っていたが、飛行機に持ち込むのは大変だ! おそらく多くの人たちは、レンタルバイクを利用していたのだ。
僕も座り込む必要が無くなったら、のんびり自転車で伊江島や久高島、もちろん沖縄本島一周をしたいものだ。
「再会」
右の若者は、韓国から何度も高江・辺野古の座り込みに参加してくれている、ノ・キョントウさん。ニックネームは、「イルカ」。息子さんと一緒に春休みを利用して高江の住民の会の宿舎「デイゴ家」に宿泊して、新基地建設阻止のために頑張ってくれている。
彼と会ったのは、2年前の12月、高江のテントで。その時は1か月半以上、高江に滞在。日本語ができるので、色々話をすると、なんと現職の小学校の先生。研修の名目で、高江の座り込みに来ていた!
日本では教員が研修名目で長期間座り込みに参加するなど、考えられない。韓国の学校のほうが自由だ。
「イルカ」君は、とても優しく、かつよく気が利く。2年前、高江の住民の会の家で一緒に食事を作ったことがあったが、なんでも自分から進んでさっと自然にやってくれた。
今回辺野古でも、ブロックを積む作業など、日本人以上にやってくれた。子どもさんも、日本の若者と一緒に、自分にできることを楽しそうにやっていた。
この日は夜高江で車に泊まり監視する役割をするとのこと。上の写真は僕が午後高江に行き、夕方N1テントの近くで撮影。
彼は全羅北道の金堤市から来ている。今年夏、彼の故郷を訪れたいと思っている。
1月30日土曜日、早朝6時に集合し、キャンプシュワーブ工事用ゲート前に積んだ約1,500個のブロック上からの写真。
機動隊の排除・撤去も予想されるので、8名がブロック上にのぼることになった。僕も志願して登った(名前が昇なので。。。。。。)
6時50分ごろ、ゲートが開き、機動隊の配置と大きなトラックがバックで近づいてきた。
向こうの作戦が分かった。2台のトラックにブロックを乗せる。その前に、ブロック上にいる8名を排除するために、写真の脚立で機動隊員を上に上がらせる作戦だ。
若干の我々の仲間がブロックの周りにいた。機動隊との激突を避けるため(けが人を出さない。逮捕者を出さないのが、現地闘争の鉄則。)、大半の人たちは弾薬庫のあるゲート2に移動していた。
完全に仲間を排除し終わってから、機動隊は上にいる僕たちをひとりづづおろしにかかった。互いにけがをしないよう、通常よりも慎重な排除作業だったように思われる。
下にいた人たちも含め、僕たちを排除した後、機動隊員たちがブロックを片づけた。7時前から始まった撤去作業が終わったのは、9時前だったように思う。
上4枚の写真は、メインゲート前の様子。ゲート2にいたメンバーがこちらに移動し、ブロックを積み始めた。工事用ゲートから排除された我々も一緒にその作業に加わった。トラックからブロックを下ろすのを阻止するため、機動隊員がトラックの輪まりを取り囲み、我々が機動隊員の隙間からブロックを取り出し、ベート前に積む攻防が20分ぐらい続いた。
メインゲートにブロックを積むのは初めての試み。工事を強行するなら、米軍基地を封鎖するぞと、われわれの意志の強さを見せつけるのが狙い。工事用ゲート、弾薬庫ゲート、そしてメインゲートにブロックを積み上げるのは、暴力以外のありとあらゆる方法を創意工夫して何とかこの無謀な工事を止めたい思いから出ている。
10時ごろ、工事用ゲートに戻ると、警察の車両がゲートを封鎖していた。我々のブロックの代わりに警察の車がゲートをブロック! 漫画の世界だ。
29日(金)午前6時過ぎに辺野古キャンプシュワーブゲート前に立った。うれしいことにコンクリートブロック1300個が完全に工事車両・作業員の出入りを止めている(ブロックしている)。
さらにブロックにはきれいな絵やメッセージが書かれ、1種のアートになっている。もっと嬉しかったのは、この日機動隊が誰一人出てこず(もちろん工事車両も)、完全な勝利(阻止)を勝ち取ったことである。
現場闘争のリーダー・山城博治さんは、「今日は工事用ゲートはブロックに任せて、第2ゲート・弾薬庫ゲートに行こう」と、参加者約60名を第2ゲートに向かわせた。
我々が弾薬庫ゲートを封鎖するのを恐れた米軍は、MPの車を出してきた。軍警備員も覆面姿で出てきた。盛んに写真を撮る。
この動きに対抗して、ブロックをゲート前に積み重ねることになった。
車両の出入りができる程度のブロック積み上げ。完全封鎖すれば、機動隊も我々を排除するだろうが、今日の行動は「工事用ゲートのブロックを取り除くなら、こちら弾薬庫ゲートをブロックで封鎖するぞ」と、相手側をけん制するためであった。
山城さんによれば、米軍としては弾薬庫ゲートを封鎖されることを恐れている。我々が工事用ゲートでなく、第2ゲートに来ることをいかに阻止するか、日本の警察と協議しているとのこと。
北上田さんが、水・木・金と工事用ゲート封鎖が続き、機動隊も出てこない理由や、最近の工事進捗状況・防衛局の手詰まりを詳しく解説してくれた。かなり専門的な説明だが、工事が止まっているのは何故なのか、彼の説明でよく理解できた。その内容については、後日、正確に彼の説明を再現したいと考えている
その後、第2ゲートから工事用ゲートに戻り、集会を開いた。27日、那覇でお会いした韓国からの平和旅行責任者・イデスさんが、奥さんと共にブロックを持ってきてくださった。実は彼らは27日にも全員が辺野古を訪問し、ブロックを運ぶのを手伝っている。
この時の通訳は、ソウル大学の金さんがやってくれた。彼女は辺野古も初めてなので、海を見てもらおうと辺野古浜に案内。ヘリ基地反対協のテントへも。
キャンプシュワーブの海岸フェンスに、静岡県から来た人たちの旗(メッセージを書いたバナー)が取り付けられていた。袋井憲法9条の会も次回行くときはメッセージバナーを持っていきたい。
1月28日は当初の計画では辺野古キャンプシュワーブゲートに朝6時に行くことになっていた。ところが、韓国の人たちとの交流会に27日参加し、予定を大きく変えることになった。
交流会で通訳をしてくれたソウル大学の学生・金さんが、沖縄が初めてなのでお礼を兼ねてだれか南部戦跡を案内することになり、レンタカーを借りている僕にやってほしいと依頼され、引き受けざるを得ないことになった。
平和記念公園を案内し、資料館、平和の礎、そして各県の慰霊塔、その奥にある牛島司令官慰霊塔、健児の塔を見て回った。
花は地元のおばさんから2つ購入したもの。 平和の礎では韓国人の名前が彫ってあるところに、韓国のツアー一行が来ていた。
その後、ひめゆりの塔や資料館へ。写真を探したが撮るのを忘れたようだ。下の写真は、沖縄県民の慰霊塔にて。
辺野古の話をしたところ、行きたいというので、28日の夜は辺野古に近い瀬嵩の「海と風」(僕は27日からここに宿泊することになっていた)に一緒に宿泊した。(部屋は別)
車の中で、食事の時に、また施設を案内して回るとき、色々な話をした。沖縄戦、戦後の米軍支配下の沖縄、本土の琉球・沖縄差別、現在の基地問題、韓国の政治についても話し合った。
驚くべきことに、彼女はお父さんの仕事の関係で小学・中学と4年間日本に住み日本語を学んだだけなのに、日本語能力は優れていた。かなり難しい話でも普通にやり取りできるのには、感心した。
夕食はいつも利用する「名護曲」で。沖縄伝統料理を美味しいと喜んでくれた。
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