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2016年9月

2016年9月28日 (水)

福島スタディツアーレポート 6 飯館村の長谷川健一さん続き

 この日、長谷川さんの息子さん2人が自宅に戻り、家の畳を取り出す(廃棄するため)作業をしているので、長谷川さんは僕たちに自宅の空になった牛舎を案内してくれなかった。
 僕は2回そのむなしい牛舎と牛を供養する卒塔婆を見たことがある。酪農家だった長谷川さんご夫婦と長男は、どれほど悔しい思いをされたことだろうか。
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 上が2年前に撮影した牛舎。 福島スタディツアーで初めて飯館村を訪問した人たちには見せてあげたかった!
 この牛舎は今年10月に壊すと話された。
 
 今回バスの中で、そば作りの話をしてくれた。何も作らなければ農地がだめになり、地区(前田区)が荒廃する。そばつくりは手間暇かけづに、機械作りが可能。売れなければ、東電に賠償請求できる。
 今年80アールの畑にそばの種をまいた。しかし台風でやられた。行政の支援も要求し、地区の荒廃を防ぐために、そばつくりから始めたい。
 長谷川さんは前田区の区長として、飯館村のリーダーとして、村長と対立しながらも(村長のやり方に反発しながらも)、村の再生のために線量が高い自宅に来年3月に戻る決意を固めている。
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税金の無駄使いとして、真新しい村の施設を見せてくれた。すぐ近くに似たような施設があるのに、村長は交付金を使い建てた。果たしてどれだけの人が利用するのだろうか?
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 悪い話ばかりではない。雨で写真がぼやけているが、太陽光発電のパネル。荒れ地となった農地の有効活用に、民間会社に農地を貸し出し、再生可能エネルギー事業が大規模に始まろうとしている。Img_5913
 太陽光パネルはフレコンバックと共生できる。相当広い土地が、今後パネルで埋め尽くされる予定である。
 長谷川さんは、5年前の状況も話してくれた。3.11の時は畑で地震を感じた。牛は驚き鳴いていた。たくさん避難民が押し寄せ、我々は牛乳を出したり、炊き出しをした。猪鍋も出した。
 3月15日は雨が降った。雪も降った。(竹野注:この雨・雪で、飯館村の人々は被ばくした。スピーディで線量が高いことが分かっていたが、国は避難命令を出さなかった!)村人は誰一人危険だとは知らなかった。
 長谷川さんのところに写真家の森住さんが来て線量を計ったところ、100マイクロシーベルト以上もあった!
 3月24日には京大の今中先生がやってきて、「直ちに避難すべき」と村長に伝えたが、村長は無視。その結果、飯館村の住民が最大の被曝をした。
 村民の中で、自主避難した人もいたが、長崎大学の山下教授の安全宣言で、戻った人もいる。
 
 
 
 

2016年9月27日 (火)

福島スタディツアーのレポート 5 飯館村の長谷川健一さん

 18日午前は、飯館村を長谷川健一さんの案内で見学した。長谷川さんには、4年前の1月に、浜岡原発を考える袋井の会を立ち上げた際、記念講演をしていただき、さらにその年の秋、袋井の会が実施したツアーで飯館村を案内していただいた。
 2年前のツアーでも案内してもらい、これで3度目の案内となる。昨年磐田市での講演会でもお会いしている。フェイスブックでもつながっているので、なじみの人である。
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 9時、飯館村役場で。
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 地蔵の頭をなでると、村民歌が流れる仕組みになっている。皆で、歌を聞いた。一緒に歌っている人もいた。河合弘之弁護士は、この歌を今年2月袋井市での講演会で高らかに歌ってくれた。苦労して豊かで美しい村を作り上げ、その自分たちの村をたたえる歌詞を聞いていると、原発災害で全村避難している現実とのギャップが悲しい。
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 バスで村内を見学。
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 長谷川健一さんは、村内あらゆるところに積まれている除染した土や草木のフレコンバックの山を 見せてくれた。
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 この日は日曜日だったので、除染作業が行なわれていなかった。平日なら、すごい数のダンプカーが村内を行き来する。
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 5センチの表土をたんぼから剥ぎ取り、山からとった汚染されていない土をかぶせる、これが農地の除染作業だ。上の写真は土を取る山。
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 表土5センチの土を入れ替えただけで、農業ができるのか? 飯館村の村長は一部の高濃度に汚染された地区を除き、来年3月に帰還宣言を目指している。
 果たして何人戻るのか? 優良農地に積まれたフレコンバックはいつ撤去されるのか?農業用水は大丈夫なのか?山の除染は道路から20メートルだけなされただけ。政府は山の除染は不可能 と、今後も手を付けない。
 長谷川さんは、若いものは戻らないだろうと言う。彼の長男は福島市に家を建て、酪農を営んでいる。次男は伊達市に住み、村役場に通っている。
 村の前途は多難。2時間の案内で彼に尋ねたいこと・説明してほしいことがいっぱいあったが 、村が抱える問題点の一部を、長谷川さんのお話を 思い出しながらレポートしたい。
・大量のフレコンバックは今は仮置き場や仮仮置き場に置かれている。村には今年7月で180万個。今は200万個置かれている。
 大熊・双葉町に運び込まれているのは、福島市や郡山市など都会のフレコンが優先されている。学校のも。
 大熊・双葉の用地取得が難航しており、飯館村のフレコンが全て撤去される見通しは無い。このままだと10年後には250万個になるだろう。
 草木を入れた袋は軽いので、大雨が降った際、たくさん流された。土を入れた袋で草が生えているのもある。(実際僕たちは目撃した)
・放射線量。自宅は0,8マイクロシーベルト。裏山は、3,5と高い。 前田区公民館は0,43マイクロシーベルト。
・前田区は徹底した除染を求めたら、一番後回しにされた。
・東電の説明会は不誠実 。村民は疲れている。あきらめムードになっている。村は村長の言いなりになっている。
・原子力損害賠償紛争解決センター(ADR)に、3000人の村民で申し立てを行っているが、村長は村民の側に立たず、東電側に立っている。まだ和解案は出ていない。活動資金が底をついているので、出来れば資金面での支援をお願いしたい。
 飯館村を離れてから、参加者からカンパを集めようと声が上がり、バスの中で25,000円が集まった。 昨日(26日)、「原発被害糾弾飯館村民救済申立団 」の講座に振り込んだ。
* 今日午後から袋井市当局に広域避難計画に関わる要望及び質問書を出すので、この続きは明日。

2016年9月25日 (日)

福島スタディツアーレポート 4 浪江町の人々その4

 浪江町本間副町長と復興推進課長山本さんへの質疑内容。
・「国は20ミリ以内なら安全・帰還できるというが、本当に安全なのか? 役場の線量はどのくらいか?」
 本間氏ーー 役場の線量は0,08マイクロシーベルト。私は福島市に住んでいるが、福島市よりはるかに低い。
 (20ミリは安全かの問いには、明確な答えは返ってこなかった。メモをしっかり取れなかったが、確か年20ミリは、1時間3,8マイクロシーベルトの線量になると言っていた。竹野注ー住民が避難している区域には、1時間3,8マイクロの地点はたくさんある。本来国の安全基準は、年1ミリ。1時間、0,23マイクロシーベルト以下となっている。)
・「20ミリは高すぎる。国に対し、基準を下げろと要望していないのか?」
 本間氏ーー 国は20ミリは見直すことはない。放射線管理区域は5ミリ。確かに20ミリは高いので、なるべく下げろとは言っている。長期的には0,23マイクロシーベルトを目指す。
・「住民票を移した人はどれぐらいいるのか?」
 本間氏ーー 2,000人である。帰還困難区域の住民を受け入れた市町には、原発災害特例法により一人当たり年42,000円が交付金として入ることになっている。
・「浪江町の財政について。仮に1万人が戻ったとして、町は財政的にやっていけるのか?」
 本間氏ーー 現在は国の助成があるから、職員の給与も払える。しかし、平成32年に国の支援が打ち切られる。公務員は解雇できない。財政的には厳しい。浪江町には原発が無いので、交付金は入らない。双葉町や大熊町と違う。現状は皆が避難しているので、税金が入らない。
 来年3月に役場周辺(海側)が解除されるが、当面戻る住民は2~3000人と見込んでいる。町はコンパクトシティを想定している。役場周辺を中心に少しづつ復興させる。
・「廃炉の過程で、放射能が外部に漏れ、また避難しなければならない事態を起きうるのでは?」
 本間氏ーー 原発は十分冷やされており、再臨界の心配はない。安全神話は今回の事故で信用していないが、爆発でヨウ素も出てしまったので、今後ヨウ素は出ないだろう。他の原発よりも安全だと認識している。
・「甲状腺がんについての質問」
 本間氏ーー 原発事故の因果関係はない。甲状腺がんは100万人に1人と言われるが、福島県は30万を検査して、135人でた。検査で、もともとあったものを発見した。
 竹野注ー135人は手術してガンと認定された数。癌疑いも含めると、174人。福島県当局・福島県立医大・小児科医師会及び国は、事故との因果関係を否定。検査の縮小を検討している。
・「浪江町当局が中心となり、東電に補償を求めている裁判の現状は?」
 本間氏ーー 裁判でなく、15,000人の町民がADRに損害賠償の調定を求めている。和解勧告が出た。東電が75歳以上に月3万円を支給しろとの内容だ。しかし、東電はこの和解案を拒否している。
・「福島の教訓から、静岡県民へのアドバイスをお願いしたい。」
 本間氏ーー 電力事情から原発をやめさせることだと思う。福島では、再生可能エネルギーに力を入れている。風力発電や遊休農地を利用した太陽光発電。山林は除染できないので、山の木を切ってバイオマス発電。水素の活用も。
*その他のやりとりから
 山本課長ーー 娘は千葉県に避難している。浪江町の子どもは避難したところでのつながりができている。町として、無理に帰還しろと言わない。戻れる人から戻るようにするほかない。
*感想ーーー 県から来ている本間氏は国・県立医大・県当局の代弁者と感じた。田端勉さんが、副町長も来てくれると喜んでいたが(僕も最初、僕たちのためにわざわざ副町長が挨拶来てくれるのはありがたいと思った。)、町の職員に答えさすと、県の方針に反する場合もありうるので、本間氏が出てきたものと思われる。
 住民が数千人戻っても、果たして税金は払えるのだろうか? 平成32年、国からの支援を打ち切られたら、財政的に浪江町は破たんする。職員の給与も払えなくなる。
 地元の山本さんはとても真面目な方で、信頼できる方だ。町の将来を考えると、東電の罪深さを痛感した。

2016年9月24日 (土)

福島スタディツアーレポート 3 浪江町の人々その3

 17日5時過ぎに福島県男女共生センターに到着。浪江町役場の方は、まだ来ていなかったが、我々は研修室に待機し、到着をまった。
 電話があり、先方は浪江町仮役場で待っているという。副町長も来てくれることになっているのに、先方を待たせて申し訳ない。しかし、こちらから役場に行くのも大変なので、役場の人に共生センターまで来てもらうことにした。この手違いは、浪江町との折衝は全て田端さんに任せたことによる。
 ともあれ17:30過ぎから、本間副町長の挨拶が始まった。
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 驚くほど若い。県庁から派遣されている。住まいは福島市。馬場有町長が何故県庁に副町長の出向を依頼したのか分からないが、想像するに県の財政面での支援を期待してと思われる。
 この後、山本邦一復興推進課長が、プロジェクターを使って、浪江町の現状・復興計画について、分かりやすい説明をしてくれた。
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 山本さんのお話と配布された資料「なみえ復興レポート」 を基に、現状と復興計画の概略について説明する。
・浪江の人口は、震災前は、21,434人。
・現在町民は全員避難生活。70%約14,500人は福島県内に、30%約6,400人は県外で生活。このなかに同行していただいた石井さんや富士市に避難されている堀川さん(彼に当初同行を依頼したが、法事と重なり実現できなかった。)が入る。
・福島県内 の仮設30か所に、約2,900人、借り上げ住宅に約4,100人が暮らしている。
・県外に避難した人は、全国44都府県約600市区町村に、分散避難生活を送っている。
・震災前は、小学校6つ、中学校3つ、生徒約1,700人がいた。現在それぞれ避難した先の全国380の小学校 と、220の中学校で学んでいる。
・浪江小・浪江中 ・津島小の3校が、二本松市で再開しているが、在学数は3校あわせて26人。
・平成29年4月に、小・中一貫校とこども園を、元の役場周辺に 再開する予定。
・震災後、役場機能は1年半で4回移動。現在は、元の庁舎で70%の職員が働いている。他は二本松市の仮役場で。
・町の大半は帰還困難区域。そこは山林が多く、人口は少ない。町役場周辺と請戸地区の海側は避難指示解除準備区域に指定されているが、来年3月解除の予定。居住制限区域もある。
・上下水道は、役場周辺は使用可能となっている。今年10月、役場敷地内に仮設店舗(10)オープンを目指している。
・来年3月には、役場隣に「浪江診療所」が開所予定。
・コメ作りや花卉栽培も始まった。
・町作りは役場周辺を中心にはじめ、住民の帰還に合わせ周辺に広げていく。コンパクトシティを目指している。
・全国に散っている町民の心をつなぐ「浪江のこころ通信」を発行している。
・避難指示解除後の帰還の意向調査。戻りたい17,8%。戻らない48,0%。判断がつかない31,5%。無回答2,7%。
・町としては無理に帰還を勧めるのでなく、それぞれの判断を尊重したい。
 以上の説明の後、質疑応答。その内容と、僕個人の感想は、次回。

2016年9月23日 (金)

福島スタディツアーレポート 2 浪江町の人々その2

 17日、最初の訪問先は、二本松市浪江町旧平石小仮設住宅自治会。自治会の集会所に10名の方が集まってくださり、6つのグループに分かれてお話を伺った。
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 左の方が、自治会長の高野さん。
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 上が僕が参加したグループ。右側の女性(真ん中は磐田から参加した方)2人が、浪江町の方。
 しばらくして、現在はいわき市に移転された元自治会長・天野さんも、郡山市での法事を終えた黒い服のまま 駆けつけ、僕たちのグループに参加してくれた。
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 初めて対面しての会話は互いに緊張して、スムーズにいかないのが普通。まして24名の参加者同士、初対面の方が多く、グループのまとめ役も決めないまま、自然に座ったグループに、浪江町の方が混じる形で、約1時間15分の交流会 となった。
 青い果物は僕らが用意したみかん。お茶は仮設自治会が用意してくださった。当初、どのようになるか心配だった。皆をうまくまとめてきた天野さんも引っ越しされ、他にも復興住宅に移転される方が増えてきていると聞いていたので、いわば取り残される立場の方なので、お元気がなくなっているのでは案じていた。
 他のグループを含め、笑い声もあり、にぎやかな会話となった。高野自治会長と事前に電話で打ち合わせした時には、夕食のしたくもあるので1時間の交流会 を想定していた。僕たちが着いたのが3時半過ぎ。終了したのが4時50分。交流会を打ち切るのが申し訳ないぐらい、雰囲気が良かった。
 後で参加者の感想を聞く機会を設けたが、多くの方が「色々お話を聞くことができて良かった。お元気そうなので、安心した。」と感想を寄せてくれた。
 僕のグループの方に、「この仮設でうつ病になった人はいませんか? お孫さんで、甲状腺がんになった人はいませんか?」と尋ねたところ、うれしい答えが返ってきた。「いません」。
 全ての仮設住宅が同じとは限らないと思う。僕は2年前郡山市の大きな仮設住宅を訪問したことがある。訪問じたいが簡単ではなかった。その前年訪問した双葉町仮設自治会会長に電話して、再度の訪問受け入れを依頼したところ、自分は仕事の関係で自治会長を辞めた、新しい自治会長のなり手がいない状態なので、訪問受け入れは困難と言われた。
 電話でいわき市に移転している双葉町役場に、仮設訪問の取次を依頼したら、「あそこは難しい仮設だ」と、断られた。
 結局、郡山市の友人小沼さんに頼み、川内村の仮設支援を継続してやっている大橋さんという方が、間に入って川内村の仮設に入っている住民を7名集めてくれ、なんとか訪問が実現した経過がある。
 長谷川健一さんたちの仮設は伊達市にあるが、4年前訪問を企画したが断られた。岩手・宮城県の地震・津波による仮設住宅への訪問は、現在の状況は分からないが、一般的には歓迎される場合が多い。
 しかし、原発災害による避難者の置かれている状況は全く異なる。仮設の状況も大きく異なる。同じ町の人々が住んでいても、元は知らない住民同士。仮設自治会の集会所に集まる人も少ない。
 2年前訪問した川内村の仮設がそうだった。自治会長不在。皆が元気を出すイベントも無し。バラバラの状態だった。
 原発災害から5年半が経ち、櫛の歯が欠けるように、仮設から移転する住民が増えている。ある意味、そこから出ていくのが自然だ。仮設はあくまでも仮の住まい。政府は2年を想定して、仮設を建設。
 出ていきたいが帰れない! これが福島の現実である。幸い僕たちが訪れた旧平石小仮設は、天野元自治会長らの努力で、訪問客を受け入れ、色々なイベントを開き、また古い着物リメイク作業をしたり、住民が孤立しないように午後3時には集会所でお茶会をやったり、とにかく皆が集まる・一緒に何かやることを心掛けてきた。
 その遺産が残っていた! しかし、7月に天野さんがいわき市に移転されてから、着物リメイク作業は行われていなかった。3時のお茶会は習慣として続いていたが、これからどうなるのかは分からない。
 僕のグループの2人の女性は、一人はすでに新しい復興住宅のアパートのかぎをもらい、近日中に二本松市のアパートに移転予定。もう一人も南相馬市原町区の復興住宅の抽選に合格していた。
 1年ぶりに再会した天野さんに帰り際少しお話を聞いたが、
 
 

2016年9月22日 (木)

福島スタディツアーレポート 1 浪江町の人々その1

 9月17,18,19日実施した「福島スタディツアー」は24名参加。レポート1回目は、浪江町の人々と題して、聞いたこと・感じたことを報告したい。
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 マイクを手に話しているのは、浪江町から御殿場市に避難されている石井さん。バスの中で、彼女が3.11以降体験したことをインタビュー形式で語ってもらった。
・自分の家は請戸地区の海岸に近いところにあった。津波が来る前に、車で大平山へ家族で 逃げた。小学校の娘とは、大平山で一緒になった。高校生の娘とは12日避難先で再会。家族5人は全員無事だった。
・大平山の手前は車の渋滞で前に進めない。ふもとのあたりから、歩いて逃げた。海水があたり一面あふれ、がれきなどが体に当たったが、逃げる時は夢中だったので、後で体中あざができていることを知った。
・後方の人で波にのまれた人もいた。私たちはほんの少し前のほうだったので、間一髪で助かった。
・大平山には100数十名ぐらいいたと思う。財布だけ持って逃げた。毛布もなく、衣服が水にぬれていたので、とにかく寒かった!
・後で分かったが、自分の家は基礎を残して 全て津波でさらわれた。何もない。
・12日皆が津島方面に逃げるので、自分たちもわけのわからないまま、逃げた。町からの避難命令は聞いていない。
・白い装束の警察官を見た。
・津島で1泊。ヨウ素剤をもらったが、それまで聞いたこともない薬で、副作用があるのではと恐れて、飲まなかった。
・冷たくなったおにぎり1個を、津島でもらっただけ。避難者であふれてきたので、主人の友達が川俣に別荘を持っていたので、そちらに行った。ここで初めて風呂に入り、体中にあざができていることを知った。
・主人は浪江の人だが、私の実家は静岡県御殿場市なので、郡山市まで御殿場の妹に車で迎えに来てもらい、しばらく実家で過ごした。
・4月になり、子ども達(高・中・小)3人は、御殿場の学校に編入。最初はアパート、その後中古の家を購入し、家族5人で暮らしている。
・子ども達は甲状腺の検査を受けたが、判定は問題ない。長女は一時放射能のことを心配していたが、あまり心配しても仕方がないので、考えないようにしている。
・主人は海の近くで育ったので、喪失感あり。しかし自分たち家族は、浪江に戻らないだろう。

2016年9月20日 (火)

朝鮮通信使記念シンポジウム レポート 続きその3 東郷氏の話

 金両基博士の説明によると、シンポの司会役の東郷和彦さんの祖先は、朝鮮半島。豊臣秀吉の朝鮮侵略の時、日本に連れてこられた人の末裔だそうだ。
 県が用意した彼のプロフィール。 1945年長野県生まれ。東大卒業後、外務省勤務。北方領土交渉やロシア関係を主に担当。元在オランダ大使。京都産業大学教授。静岡県対外関係補佐官。
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 「日本人の中の安重根」  彼のテーマは意外だった。日本政府は、安重根を伊藤博文を暗殺した犯罪人=テロリストとみなしている。
 元外務省高官の東郷氏は、安重根の人柄・思想をきちんと評価している。安重根の東洋平和論を紹介し、彼が何故伊藤博文を暗殺しなければならなかったのか、説明してくれた。
 さらに旅順監獄で安重根の看守にあたった千葉十七を取り上げ、千葉が安重根の人柄に感服し、死刑執行される直前、安重根に頼んで遺墨を書いてもらった事、その遺墨を大切に保管して、千葉の死亡後は妻のきつよが供養し、さらに姪の三浦くに子さんが大切に保管・供養してきたこと、1979年には韓国に返還され、安重根記念館に展示されていることなどを話してくれた。
 宮城県の大林寺には、千葉のお墓と彼の顕彰碑があり、その裏にはこの経過と安重根の最後の遺墨が書かれている。
 元外交官の岡崎久彦氏の言葉も紹介。「彼は特に反日的な人ではない。言っていることは理路整然としており、深い信念に基づいている。
 彼の理念は、日・韓・中が共に団結して東洋に立つこと。アメリカでは、コリアン・パトリオット(愛国者)と認識されている。
 龍谷大学に、安重根東洋平和研究センターがある。村井宮城県知事が、大林寺住職の話を聞き、安重根を尊敬する日本人千葉を評価していることも紹介してくれた。
 大林寺の住職は、元朝日新聞記者の斉藤康彦さん。いつかこの寺を訪れ、斎藤さんのお話を伺い、千葉の顕彰碑を見たいと思う。
 

2016年9月16日 (金)

明日から福島へ

 17日から19日まで、福島スタディツアーに出かけます。24名参加。その準備で忙しい時に、沖縄では不当判決。
 国・裁判所・警察は、沖縄を蹂躙している。民主主義もない。差別むきだし。植民地支配そのものだ。
 帰ってきてから、この問題について書きます。

朝鮮通信使記念シンポジウム レポート 続きその2

 仲尾宏先生のお話。先生には、昨年大津市でお会いしていたので、シンポが始まる前ご挨拶し、受付で配布してもらう友情ウオーク関係の資料を直接渡してあった。
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 「歴史から学ぶ日韓関係の展望」
  ・対馬とプサンの距離はわずか50キロ。晴れた日には見えるほど近い。この至近距離が、歴史的に日本と韓国の一衣帯水の関係を形成。渡来人と言われる多くの人々が、日本列島にやってきた。
・朝鮮通信使は、平安時代にもあり、朝鮮国王と対等の関係で外交が行われた。江戸時代の朝鮮通信使は、最初はイムジンウエラン(豊臣秀吉の朝鮮侵略=文禄・慶長の役)の戦後処理が目的。
・外交関係があったから、文化交流が行なわれ、相互理解が進んだ。共通の漢字文化があったことも、交流に役立っている。
・対馬藩を通して、貿易も行われた。生糸や銀など。
・朝鮮通信使世界記憶遺産登録の申請は、日本は縁地 連が窓口、韓国はプサン文化財団が窓口となり、申請の発議はプサン文化財団。
 双方に学術委員会を設置し、10回の合同学術委員会を開催した。(仲尾宏先生は日本側委員長)
 ユネスコに認められるためには、申請物件が本物でなければならない。日韓双方で慎重に審議し、外交文書・旅程の記録・文化交流記録合計111点、333点を選んだ。
・清見寺にはほんものがたくさん残っている。私も清見寺に調査・確認に来ている。40数物件が清見寺のもの。清見寺には扁額がたくさんあるが、これは申請対象ではない。朝鮮通信使の書いた詩文を、木の板に彫ったものであり、本物は実際にかかれた紙の物件。収蔵庫に保管されているものを申請した。
・申請されたものは、両国間で合意されたもののみ。合同会議では、「侵略か、出兵か、対馬藩の宋義智の評価など」、議論が交わされた。宋は、小西行長と共にプサントンネ侵略に参加しており、宋関係の物件は議論の末はずした。共通の理解ができたものが申請された。
次回は、東郷和彦氏のお話をレポートします。

2016年9月15日 (木)

朝鮮通信使記念シンポジウム レポート 続きその1

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 李薫(イ・フン)韓国幹林大学校教授は、「国書の形式と伝達にみる通信使外交」と題して、ミニ講演。
 中国(当時は清)と朝鮮王朝との外交関係と、江戸幕府との外交の違いを説明して、中国とは臣下の立場で対等な関係ではなかったが、日本とは対等な国と国との関係であった。それを証明するのが、国書と国書を運ぶかごである。
 朝鮮通信使は文化交流の側面もあるが、一番大切なものは、国書の交換であった。李教授は具体的な資料を映像で流しながら、説得有る説明をしてくださった。
 僕は彼女のミニ講演を聞きながら、友情ウオーク韓国側隊長のソン・サンギュさんのことが頭に浮かんだ。
 昨年の第5次ウークで、田辺静岡市長に国書に見立てたソンサンギュ隊長のメッセージを、彼が読み上げ手渡すセレモニーを 行った。
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 これが国書を運ぶかご(正式名称を忘れた)。ここにソンサンギュさんの国書に見立てたメッセージ(ハングルできれいに書かれている。日本でいう書道の先生が書いたもの)が巻物にされ入っている。上の写真では、それを取り出し広げている。
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 右が徳川家康公に扮した田辺市長。左が正使役のソンサンギュさん。田辺市長が、正使に対する返礼の挨拶をしている。
 実はこのとき田辺市長に手渡した「国書」にほんの少しの間違いがあった。ハングルの字が間違っているとのこと。ソンサンギュさんは、それを気にしておられ、帰国後書道の先生に書き直してもらい、僕のところに正しい「国書」が送られてきた。田辺市長に届けてほしいという手紙を添えて。イベントの写真も入っていた。
 静岡市長室の担当にその「国書」と写真を届けたら、田辺市長から確かに受けとったと礼状が届いた。
 李教授の話を聞きながら、来年第6次21世紀の朝鮮通信使友情ウオークの歓迎会は、静岡県主催でやってもらい、川勝県知事が徳川家康公に扮して、ソンサンギュ正使の「国書」を受け取ってもらえるようにできたらなあと思った。
 実は先日県庁に電話し、この件と世界記憶遺産登録を祝うイベント事業の件で、民団や文化の風・アユドリームなど友情ウオークで協力をいただいている団体の責任者と共に、地域外交課の責任者と相談したい旨、 伝えた。10月下旬の日程で、 調整してくれることになった。
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 チョン・ジェジョン・ソウル市立大学教授は、「日韓の歴史葛藤と歴史対話」と出して、ミニ講演。
 1965年の日韓条約は不十分。日本の政治家の「妄言」で韓国国民の誇りを傷つけ、反日感情を触発させる事件がしばしば起きた。
 しかし1990年代以降、日本側の歴史認識は次第に改善されてきた。細川総理は創氏改名 など具体的に上げながら、植民地支配に関して率直に謝罪と反省の意を示した。
 1995年、村山総理は閣議決定により、「植民地支配を通じて多大な損害と苦痛を与えたことに関して痛切な謝罪と反省」の意を表明した。村山談話は連立政権の自民党に配慮して、アジア全体を対象にしたものであり、韓国を指していない。
 1998年、金大中大統領と小渕首相の「日韓パートナーシップ共同宣言」で、日本政府が初めて文書で「謝罪と反省」を表明した。
 この流れは小泉首相が2002年北朝鮮を訪問したときの「日朝共同宣言」にも反映され、その後、菅直人首相は韓国併合を認めている。
 安倍首相も、侵略を否定していない。
 日本と韓国の政府が支援する歴史共同研究も、2002年から2009年まで続けられ、2007年には歴史教材ができた。歴史認識の差を埋める努力である。
 ただ近年両国政府は、学校教育で愛国と愛郷、伝統と領土を重視している。ナショナリズムが教科書の内容に強くなっている。一般国民の歴史認識にも。
 次回は仲尾教授と東郷教授の話の内容をレポートします。
 

2016年9月14日 (水)

日本と韓国=隣国との平和・友好・親善のため、朝鮮通信使を21世紀によみがえらせる

 9月10日、静岡県清水区の清見寺で、『 朝鮮通信使記念シンポジウム~朝鮮通信使等を通じた韓国と静岡県の歴史と未来を考える~』催しがあり、参加した。
 このイベント情報は、8月末韓国から戻り金両基先生の家を訪れた時、先生からこのような催しがあるが知っているかともたらされた。
 彼の家を訪問した後、韓国民団県本部に行き、そのイベントの要綱と申し込み用紙をもらい、すぐファックスで申し込んだ。
 後で詳しくそのイベント内容を紹介するが、来年の21世紀の朝鮮通信使友情ウオークの宣伝をする良い機会だと考え、主催の静岡県地域外交課に電話し、ウオーク日程の情報案内を会場で配布したい旨伝えると、OKの返事をもらった。
 定員40名なので、講師の分を含め50枚印刷し、電話した時点ではまだ申し込みが少ないようだったので、メールで関係者にこの催しを紹介したところ、友情ウオークの日本側責任者・遠藤靖夫さんから来年のウオーク参加募集のカラーちらしができているとの情報が入り、50枚送ってもらった。
 シンポ前日の夜に、地域外交課の担当者から電話が入り、参加者が70名に増えたと連絡が入った。カラーちらしと僕が印刷した日程情報、さらに昨年第5次静岡県内友情ウオークの歓迎・接待情報をまとめた印刷物を70部用意して、10日のシンポに参加した。
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 写真の人物は、東北アジア歴史財団事務総長・李賢主氏。彼の挨拶内容は後で紹介する。
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 赤と青の幟旗は、昨年の友情ウオークで対馬市に事務局がある朝鮮通信使縁地 連絡協議会の松原会長から、世界記憶遺産登録キャンペーンに使ってくれと託されたもの。
 静岡県内東海道筋のほとんどの市役所に届け、残った1本を僕が保管してあったので、主催者の許可をもらい掲示させてもらった。
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 このシンポは2つの組織が主催。 上の方は主催の駐横浜大韓民国総領事館・総領事の朱重徹氏。
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 同じく主催の静岡県知事・川勝平太氏。彼の挨拶も後で紹介する。
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 パネリストでシンポ司会の東郷和彦氏。彼は金両基先生の話によるとルーツは韓国。豊臣秀吉の朝鮮侵略の際捕虜として薩摩藩に拉致された末裔にあたるそうだ。彼の安重根についての話は興味深い内容だった。後でその内容を紹介する。東郷氏は元外交官。現在は京都産業大学教授、静岡県対外関係補佐官。
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 韓国から招かれた2人のパネリスト。パネリストは各20分の持ち時間でミニ講演をしてくれた。その内容も後で簡単に紹介する。
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 パネリストの仲尾宏・京都造形芸術大学客員教授。彼は昨年の友情ウオークでは、大津市での朝の出発式に、三日月大造滋賀県知事と共に来てくれ、僕らを励ましたくれた。朝鮮通信使世界記憶遺産登録日本側推進委員の中心人物。彼の話も後で。
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 お寺の扁額は全て通信使関連のもの。
①総領事・朱重徹氏の挨拶ーーー軍慰安婦の問題が日韓で合意され、その履行が進展しているのは喜ばしい。歴史認識の問題は、事実認識の問題であり、事実は変えることができない。両国民の努力で、歴史認識の差を埋めることができると信じている。
②東北アジア歴史財団事務総長・ 李賢主氏の挨拶ーーー自分はカトリック教徒。清見寺を初めて訪問した。前を通る鉄道がなかったら、風光明媚な素晴らしいところ だ。
 1984年、早稲田大学に2年間留学した。その後外務省に入り、東京の大使館で4年間勤務。その頃は、政治の世界では比較的日韓関係はよかったが、民衆レベルでは冷めていたと思う。
 2000年代に大阪総領事となり、日本に戻ると、日韓の民衆レベルの関係は熱くなっていた。いわゆる韓流ブームに湧いていた。 下は交流。上は冷たい関係になっていた。
 市民同士の交流が進んだのは、両国の民主主義が進んだことが大きな要因だと思う。
 中華人民共和国という漢字は、made in japanである。 中華は中国語だが、人民という漢字は明治時代に西洋の文明を取り入れた日本人が作った。共和国という漢字もそうである。日本は中国に名称では貢献しているのですよ。しかしほとんどの日本人はそのことを知らないですね。(僕も初めて知った!)
 日韓の関係をよくするためには、互いのいいところをほめることも大切。日本は温泉がたくさんある。2019年、韓国の新大統領を日本の温泉へ迎え、友好を深めてほしい。
 
③川勝平太静岡県知事の挨拶ーーー 663年、百済への援軍はここ清水から出た。そのことは、日本書紀にかかれている。当時から日本と韓国(朝鮮)との関係は深い。百済が破れ、大勢の百済の人が日本に来た。
 奈良という言葉は韓国語で国を意味する。飛鳥・大和時代の有力者は、朝鮮半島からの帰化人である。
 今の天皇は、記者会見で、「父祖の父は韓国 から来た。皇室も韓国とつながりがある。」ことを認めている。
 静岡県は徳川家康公・清見寺をはじめ、韓国と深いつながりがある。現在静岡県は、チュンチュンナンドと姉妹関係を結んでいる。
 2014年、韓国朴クネ大統領に、「静岡県は韓国と深いつながりがあり、友好平和のシンボルが清見寺。ここでお茶会 を催したいから是非来てください」との手紙を送った。
 政治的な冷え込みでそれが実現していないが、再来年、新大統領には是非静岡県に来ていただきたいと願っている。
 ジェームス・三木の「つばめ」という本を読んだ。豊臣秀吉の侵略で日本に連れてこられた「つばめ」という女性の悲劇を描いている。彼女は彦根城(来年NHK大河ドラマの主人公・女城主伊井なおとらの息子が初代城主)で、かつての夫である通信使の一員と再会。しかしすでに日本人の夫と結婚し、子どももある。愛する元の夫から「一緒に国に帰ろう」と誘われるが、日本にも愛する家族がいる。悩んだ末、入水自殺するストーリーである。
 (川勝知事は伊井なおとらは浜松出身だから彦根城での出会いを描いた「つばめ」の紹介の目的は、静岡県と韓国との歴史的なつながりを強調するためと思われる。僕は「燕=つばめ」のミュージカル(劇団わらび座)をかつて浜松市・静岡市・三島市で主催したことがあるので、知事がつばめの紹介をした時には驚き、うれしかった! )
 長くなったので(疲れたので)、パネリストの講演内容は次回紹介します。

2016年9月13日 (火)

韓国旅行 最終回

 8月下旬の韓国旅行レポートを、長々と書いてきた。ここらで一区切りつけたい。26日、全州からソウルに戻るとき、うれしい出会いがあった。
 イクサン駅までの電車に乗った際、隣の女性が日本語で話しかけてきた。聞くと、静岡大学に10か月間留学したことがあり、現在は韓国の日系企業に勤めているとのこと。道理で日本語が上手。
 うれしくなり、こちらから僕の今回の韓国旅行の目的や、これまでの韓国とのお付き合いなど、すこし一方的になったが、色々お話をした。
 お住まいは韓国南部のヨス。1995年夏、韓国を1か月自転車と鉄道・バスで旅行した時、ヨスに一泊したことがある。風光明美な港町だ。イスンシンのコブクソン(亀の形をした船ーーーこの鉄兜をかぶった船で、豊臣秀吉の水軍を打ち破った!)が港に係留されている。エキスポが開催され、今ではソウルからKTXで直接行ける。
 港から少し船で行ったところに、イスンシン将軍を祭ったハンサンド≪島の名前。イスンシンの神社やゆかりの建物で有名。》がある。
 僕はその島で、プサンのチェ・チョンウンさんと出会い、彼の依頼で、生き別れになったお兄さんの消息を栃木県足利市で調べ、お兄さんは死亡しているがお嫁さんや息子娘(計3名)が今も足利市に住んでいることを発見した。
 川島姓のその家族とは、今も年賀状のやり取りをしている。プサンのチェチョンウンさんの自宅に泊めてもらった事がある。彼が亡くなった翌年、プサンへ墓参りに行ったこともある。
 そのような話を出会ったばかりの女性にした。その女性の名前は、金ジュヒさん。いつかヨスでお会いしたいと思っている。
 韓国最後の夜はミョンドンそぞろ歩きと食事を楽しんだ。気楽な格好で外出したから、カメラは持って出なかった。相変わらず、人でいっぱい! 屋台もたくさん出ていた。外国人の姿もたくさん見かけた。夕食は、サンゲタンとビール。
 買い物は高麗人参茶2箱と、携帯電話ケースのみ。ナノムの家の所長から預かった本2冊が重いので、軽いショッピングに済ませた。
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 上がミョンドン駅近くの僕が4泊した「wons ville myeong-dong]ホテル。地下鉄4号線「ミョンドン」駅下車、10番出口を上がり、セジョンホテル方向に歩くと 、ホテルの看板が見える。駅から徒歩4分。
 宿泊費は朝食付きで日本円、5100円。部屋はシングル、トイレバス、冷蔵庫・テレビもあり、インターネットも接続出来る。朝食はバイキングで、食べ放題、ソフトドリンク飲み放題。野菜が豊富なので、僕は大満足した。 インターネット予約ができる。
 授業員に英語が話せる可愛い女性がいて、言葉に困らなかった。他の若い受付の人たちも応対がよかった。1階に洗濯機やアイロンもあったので、長期滞在も可能。
 地の利が最高! 南山のふもとにあり、ソウルタワーまで早朝2回も約2時間のウオーキングを楽しんだ。
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 この山のすそ野に快適な遊歩道が作られている。その遊歩道も2回歩いた。
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 地下鉄ミョンドン駅のあたりに、インチョン空港行きのリムジンバス乗り場がある。この写真はそのバス停で撮影。充実した旅だったので、満足そうな表情?ですね。
 

2016年9月12日 (月)

韓国旅行 久しぶりの全州(チョンジュ)観光

 8月26日、金堤市の友人と別れ、電車で全州へ行った。全州の紹介の前に、この地域一帯の食について。下の写真は前日、友人と食堂で食べた料理「しゃぶしゃぶ海鮮鍋」。シャブシャブという言葉は、韓国語に取り入れられている! 鍋を半分に仕切り、上側は肉を入れてシャブシャブ。下側は海鮮鍋。
 素材が良いので美味しい! マシイッソヨ!  キムチも極上。金堤市は全州の隣町。農業が盛ん。それだけに、新鮮な野菜が豊富にある。美味しい料理・ビール(ハイトメッチュ)をいただきながら、友人との会話が弾んだ。奥さんが仕事で遅くなるので、2人での外食となった。
 
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 隣の町(乗り換えが必要だが)なのだが、乗ったのは座席指定のムグンファ号。この電車はソウルのヨンサン駅が終点。3時間かかる。韓国は車社会なので、バスで行ったほうが早く安いのだが、のんびり電車を待ち、車窓の景色を楽しみながらの鉄道の旅も良い。
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 乗り換えのイクサン駅で。青と白の車体は、高速鉄道KTX..。ソウル へ戻るときは、このKTXを利用した。
全州駅でコインロッカーに荷物を預けた。日本だとコインを入れるだけで、利用が簡単だが、韓国のコインロッカーは最新式なだけに地元の女性も苦労していた。もちろん僕も。見かねた若い娘さんが、手助けしてくれた。彼女は日本語が話せる。
 目指す慶基殿は、1995年に訪れた時に比べると、すっかり整備されていた。観光客も多い。
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 後で写真で紹介するが、若いカップルやグループの女性は貸衣装の韓服 を着て、うれしそうに写真を撮る姿があちこちで見られた。
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 豊南門。写真はぼやけているが、彫刻や彩色は見事。
 以外なものを発見した。
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 軍慰安婦にされた女性の少女像が、なんと観光地の真ん中にあった! ソウル日本大使館前にあるものと同じ。イスンシンの像は、韓国いたるところにあるが、少女の像もひとつではなかった。アメリカにもいくつか建てられているが、恐らく銅を型に流し込んで作成しているものと思われる。
 日本には金次郎の像があちこちに建てられているが、思い入れがあるから建てられる。僕たち日本人は、韓国の人々の思いを理解する必要があると思う。
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 雨が降ってきたので、ガイドブックで調べた店でなく、適当な店に入りビビンバを注文した。さすが本場! 具がたくさん 入っている。キムチもたくさん出る。サラダも出たが、野菜がむちゃくちゃ新鮮で美味しかった!
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 食事をとったところは、全州韓屋マウル内。10数年前、2度目の訪問の時にはできていなかった。なかなか雰囲気が良い。韓服を貸し出す店も多く、若い人たちがこの衣装を身に着けてそぞろ歩きをするのが流行している。
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 ここへは妻や娘を連れて、 また来たいと思う。
韓屋マウルの一画に、忘れてはならない人を記念する博物館があった。
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 東学革命の指導者、全(チョン)が逮捕され、獄に移送されるときの写真。彼は当初は腐敗した朝鮮王朝と闘い、その後、朝鮮を我が物にしたい日本軍と闘い、捉えられ、死刑にされた民族の英雄である。
 僕は30年前初めて韓国を訪れた時、彼の生まれた家や記念碑が立つ公園を訪れているから、ここで彼の記念館を発見してうれしかった。
 この地方の人々がいかに彼を尊敬しているかが、良く分かった。
 
 

2016年9月 9日 (金)

韓国旅行  友人との会話から韓国社会の一端を知る

 ノ・キョントウさんと、色々な話をした。車の中で、夕食時、そして26日早朝ウオーキングのときなど。彼の日本語はすごく上達していて、驚いた。僕の韓国語は全く向上しないのに。
 スマートフォンで、日本の映画やドラマを聞いているとのこと。古い映画が多いらしい。シャワーのように聞き流しているだけで、話す機会はあまりないそうだが、リスリングの効果は絶大だ!
 韓国社会は日本以上にインターネットやスマートフォンが普及している。25日金山寺参道の食堂でビビンバを食べ、帰りのバスの時間を食堂のおじさん(70歳以上)に尋ねたら、スマートフォンで調べて教えてくれたのにはびっくりした!
 彼は現職の教員だから、教育問題について色々聞いた。「何が今一番、あなたの学校で問題ですか?」と。
 金堤は農業が主な産業で、農村の男性はベトナム・フィリピン人のお嫁さんを迎えるケースが多い。男性が40歳ぐらい。お嫁さんが20歳台。文化の違い・年齢の違いなどで、離婚も多い。
 生まれた子どもは韓国語が十分に話せない。離婚すると先ず経済的に困窮する。親は生活に追われ、子どもに韓国語を教えることができない。
 彼のクラスにもベトナム系の児童が2人いる。韓国語ができないので、補修授業をしている。言葉を教える先生が足りず(政府から派遣される)、十分でない。
 家庭の教育力が無いので、子どもは色々な問題を抱えている。今、親が離婚しようとしている家庭をクラスに抱えている。時々家庭訪問して、相談に乗っているそうだ。
 教員組合を政府は法律的に認めていないのも問題。最近では国定教科書問題もある。しかし、群(金堤市を含む広域地域単位)の教育長は選挙で選ぶ。今の教育長は革新的。政府と教科書問題で対立している。
 社会の国定教科書を使わないことで、裁判で政府と闘っている。教員の研修に理解ある教育長で、希望すれば自分の能力を向上させるため、海外留学もできる。(日本では本人の希望で現職のまま留学できない!)
 教育長は子どもが親といっしょにしっかり朝食をとることが大切だと、始業時間を9時に定めた。そのおかげで、朝は教員もゆとりがある。
 26日朝、僕と友人はウオーキングを終え7時に朝食を食べたが(僕を早く駅に送る関係で)、中学校に努める奥さんや子ども達はまだ寝ていた。
 金堤市の市長は高齢化対策に熱心。老人の健康促進のため、色々な施設を作っている。僕たち2人がウオーキングした公園もそのために作られた。広い池の周りに遊歩道があり、緑も豊で素晴らしい公園だ。体育館もある。
 市民会館では時々老人が無料になる映画会も行われる。他にも色々優遇措置があるそうだ。

2016年9月 7日 (水)

韓国旅行 鉄道で友人に会いに 続き

 約束通り、ノ・キョントウさんが車で迎えに来てくれた。直ぐ彼の家に。
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 写真はノ・キョントウさん。戦車の前での撮影については、後で説明。彼の家は高層アパートの2階だ。韓国はどんな地方都市に行っても、ニョキニョキ高層アパートが林立している。地震が無いから高層になるのは理解できるが、何故日本と違い1戸建ての家が少なく、高層アパートが多いのか、その理由が良く分からない。
 彼の説明では、ハンガンの奇跡・高度経済成長時代以降、農村部から若者が都会に出て、彼らの住宅が大量に必要になったから。さらに最近では自分の家がある中年以上の年代でも、農村部は不便だから商店街に近いアパートを好むとのこと。
 僕はアパートは賃貸しだと思い込んでいたが、買い取りがほとんどとのこと。日本のマンション購入にあたる。
 内部は広く、きれいだ。
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 友人宅の居間。台所・キッチンと繋がっており、広々した空間。20畳以上あるだろう。夫婦の部屋、子供部屋が2つ、トイレバス、広いベランダもある。
 夕食までかなり時間があるので、友人が郡山(クンサン)を案内してくれた。真っ先に行ったのが、米空軍基地。
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 写真を撮ったら、韓国人警備人が飛び出してきた! 「カメラ禁止」と注意し、フィルムを取りあげようとする。ノ・キョントウさんが対応してくれたので事なきを得たが、 僕一人だとどうなっていただろうか?
 沖縄の米軍基地を守る軍警と同じように、韓国の警備人も確か腰に銃を持っていた! 心はアメリカ人。
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 このゲートは、韓国人業者が出入りする。差別を感じた。
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 戦闘機が数機入る格納庫。きちんと数えなかったが、20個以上あると思われる。基地は広大だ。
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 この空軍基地は、今では韓国を守るだけでなく、中国・台湾・ロシアにもにらみを利かせている。沖縄の嘉手納基地ともリンクしている。
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 拡張計画がある用地。コプラというヘリ基地になる予定。農民の土地を奪い、造成された。元は豊な田んぼだった。
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 白い建物が、米兵の宿舎。写真では分からないが、立派なホテルと間違うほどのきれいな外観をしている。誰の金で建設したのだろう?
 1970年代、朴大統領が、全国の米軍基地の近くに、米兵相手の盛り場を人工的に作った。バー、食堂、喫茶、ゲームを楽しむ店、衣料品店、車販売店などが集中し、ベトナム戦争のころは栄えたそうだ。買春も。
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 「国際文化村」。 売春やバーが文化だろうか?  友人の説明では、韓国全ての同様な村(地域)の入り口に、この名前 の看板が立っているそうだ。
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このクラブの中で、ミュジシャンたちが演奏の練習をしていた。中にはさびれた店もある。廃墟に近い店も。
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 最近米兵はソウルまで遊びに行く。そのために金曜日の夕方、無料のバスが出る。月曜の朝早く戻ってくる米兵もいるそうだ。
 沖縄と似ている。辺野古の集落の米兵相手の店もさびれている。嘉手納空軍基地前の歓楽街も、かつての面影は全くない。
 ノ・キョントウさんは、植民地時代に日本人が作った町並みを見学させてくれた。町の作りが、碁盤の目状に、きれいに整備されている。日本式家屋は残っていなかったが。
 クンサンの港を訪れた。日本人が植民地時代に作った浮桟橋が今も使われている。
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 港は遠浅。潮が満ちないと、船が接岸できない。潮が満ちると、桟橋が浮上し、大きな船が接岸できるようにした。
 歴史を知らない人は、日本も植民地時代にいいことをしたと言う。この港から、大量のコメが日本に運ばれた。貧しい農民から農地を奪い、小作人にして、納めたコメを日本に供出したのだ。そのために考案されたのが、この浮桟橋である。
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 港の一区画が軍事公園になっていた。ベトナム戦争で使われた米軍の兵器や韓国軍の船が展示され、市民や子ども達に愛国心を植え付ける装置だ。自衛隊の展示施設とよく似ている。
 写真の船はベトナムに韓国兵を何度も派兵したときに使われ、今は有料で中に入ることができる。ノ・キョントウさんが、受付で日本人の友人と来たと告げると、僕らは無料で入館できた。
 友人の小学校は遠足でここには来ていないが、多分クンサンの小学生たちは遠足で来るものと思われる。友人は沖縄の米軍基地建設に反対しているぐらいだから、子どもたちへの軍事教育に反対の立場に立つ。
 どこの国でも悲しい現実がある。
 

2016年9月 6日 (火)

韓国旅行 鉄道で友人に会いに

 8月25日、ヨンサン駅から韓国の新幹線”KTX”に乗車して、友人”イルカ先生”に会いに行った。
 韓国鉄道の旅はこれまでに3回経験している。1995年にソウルからセマウル号でキョンジュへ。多分2000年ごろだと思うが、プサンからセマウル号でソウルへ。インチョンからソウルまでの路線も乗っている。
 KTXと地方の鉄道に乗りたいと願っていたが、今回それが実現した。海外では切符を買うのに手間取るのと、またプラットホームを探すのに時間がかかるので、23日夕方ヨンサン駅へ行った。
 事前に下見をしてよかった! 地下鉄「新ヨンサン駅」から、すぐ乗り継ぐことができない。少し離れているのだ。25日は早い出発の予定だったので、地下鉄駅からヨンサン駅までの道を確認しておいてよかった。距離にして300メートルぐらい離れている。
 ヨンサン駅は大きかった。南方面への起点駅。切符売り場は行列ができていた。あらかじめインターネットで調べて、行きたい所と時間をメモしておいたので、購入はスムーズにいった。
 イクサンまでKTX, 友人の住む町・金堤(キムジェ)までムグンファ号。料金は確か35,000ウオンぐらい(日本円で3,500円)だった。韓国はバスもそうだが公共の乗り物は日本に比べて驚くほど安い! 感謝!
 さて25日、小さい失敗。乗車するプラットホームを間違えた。これには理由(言い訳)がある。改札がない。日本の新幹線のホームは、在来線と異なっているので、恐らく外国人も間違うことなないと思う。表示も分かりやすい。
 僕が待っていたホームは、確かにイクサン方面。KYXの始発駅なので、列車が早めに入ってくると思ったが来ない。不安になって、教養がありそうな婦人に英語で尋ねると、向こう側と教えてくれた。
 
 KTXは快適だった。全て座席指定。座席はゆったりしている。時間も正確。帰りもKTXなので、車窓風景を楽しむのは後にして、ガイドブック「地球の歩き方」で26日チュンジュ観光の下調べをした。
 8:15に出発して、イクサンに着いたのは9:32. 普通路線ムグンファ号乗り換えで、目的地キムジェ駅到着は、9:57. 早い! フグンファ号でヨンサンから来ると3時間かかる。
 早く着いたのは良いが、友人が迎えに来てくれる時刻は午後2時半。彼は小学校の先生で、すでに学校が始まっていた。日本からメールして連絡を取った時は、夏休みと思っていた。22日ソウルで大学生のト・ヒョンさんに、友人に会いに行く話をして韓国ではすでに学校が始まっていることを知った。
 仕事に支障があると申し訳ないので、ホテルから電話し、授業が終わった午後2時半ということになった。
 駅前の観光案内の地図を見てもハングルなので分からない。時間をつぶすショッピングセンターも見当たらない。駅員さんにキムジェ観光に良いところはありませんかと尋ねると、ハングルでメモを書いてくれ、バスが出ているから行ってみてはと進めてくれた。
 予備知識が全くなかったが、ぼやっと駅の待合室でいるのもつまらないので、バス停に向かった。乗り場は分かったが、何時に来るのかも分からない。
 バスで30~40分ぐらいと駅員に来ていたので、多少高くつくがタクシーで行くことにした。英語が通じないが、メモを見せるとすぐ目的地を理解してくれ、走りながらそのお寺ではカメラの撮影はダメと教えてくれた。
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 金山寺。立派なお寺だった。宝物(日本の重要文化財に相当する)に指定されている建物や石塔がたくさんある。建物の中はカメラ禁止だったので紹介できないが、仏像や彫刻、天井画が素晴らしい。
 猛烈に暑い日だった。涼しい本堂に上がらせてもらい、ちょうどお経をあげていたので、約30分仏像や天井画を眺めながら、ここちよい時間を過ごした。
 帰りはバスを利用。タクシーは、21,800ウオンだったが、バスは1,900ウオン。タクシーも日本円にすると、2,180円。30分乗ってだから、安い!
 キムジェ駅に戻ったら、しばらくして友人が迎えに来てくれた。ノ・キョントウさん。沖縄高江の座り込みによく来てくれる、心優しい人だ。
 彼の家庭や、彼が案内してくれたクンサン米軍基地などについては、次回レポートします。
 

2016年9月 5日 (月)

韓国旅行 日本人経営のレストラン「あいわ」

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 フェイスブックでお友達になった松本ひとみさん経営のお店を紹介したい。僕は23日、24日と2回、そこで夕食を食べ、松本さんや店の従業員(ほとんど日本人)、客と会話を交わした。
 海外旅行をして、日本人が経営するレストラン(松本さんにもらった名刺では『居酒屋』)には絶対に入らないのが僕のポリシーである。
 なのに2回も行ったのは理由がある。このお店を紹介してくれたのは、静岡市の澤井さん。21世紀の朝鮮通信使友情ウオークのイベントではお世話になっている方だ。朝鮮学校支援にも深い理解のある方である。
 松本さんとは面識がなかったが、韓国の大学を卒業され、長く韓国に住んでお仕事をされている。韓国を理解するのに彼女のお話を聞きのは役立つだろうと思った。
 単純な理由もある。23日に食べた”豆乳うどん”が美味しかった! また食べたい。生ビールをおごってくれた! 23日はカメラを持って行かなかったので、写真に納めて是非多くの人に紹介したい。
 そんな訳で、海外ではその土地の料理を食べる僕のポリシーを破り、2回も 行った。
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 お店は広い。レストランと最初紹介したが、正式には居酒屋なので、この写真を撮った時間は6時半過ぎ。まだ飲みに来る客は来ない時間帯なので、このカウンターの客は僕一人だった。7時になって2人来た。
 しかし実は別室に20数名の日本人客が来た。ソウルの日本企業社員の情報交換会が行われていた。
 会社の幹部と思われる人たちが続々と入ってきて、慣れた様子で奥にある個室に消えていった。会話の様子は全く聞こえない。
 さらに反対側にも個室がいくつかあり、グループ客はそこを利用していた。この日のグループ客は地元ソウルっ子だと思う。
 衝立で仕切られたテーブルには前日もそうだったが韓国人客が来ていた。お店が広いから、ミュンドンの賑わっている店の雰囲気はないが、落ち着いた感じの良いお店だと思う。
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 これが松本ひとみさんお勧めの”豆乳うどん”。さっぱりしていて、美味しい! 僕は2日同じものを注文した。
 ボリュームもある。健康にもよい。ソウルの夏はめちゃ暑いので、冷たいうどんが喉にここちよい!
 値段は、8000ウオン。日本円で800円。数日ソウルで韓国料理を満喫してから、喉と胃に優しいこの料理を食べることをお勧めしたい。
 メニューは全て日本料理! カウンターの鉄板で、松本さん自らお好み焼きや焼肉、オクラと山芋を炒める。すごくおいしそうだった!
 僕はビールのつまみに、23日はカキフライ、24日は鶏のから揚げを注文した。野菜がたっぷり添えられていて、ボリュームいっぱい。つまみというより、夕食の一品であった。ビールと2つの料理で、大食いの僕でもお腹がいっぱい。
 2日目は当然ビール代も払ったが、確か2千数百ウオン、日本円で2600円ぐらいだったと思う。大満足!
 お店の名前「あいわ」の意味を訪ねた。愛・平和の意味が込められるているとのこと。お客さんへの愛、愛情を持って美味しく健康的な食べ物を提供し、接客する。さらに日本と韓国の平和を願う。韓国人客に日本料理と日本のお店の雰囲気を楽しんでもらい、日本に好感を持ってもらう。
 入ってきたお客さん、出ていく人への挨拶は、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」「またおこしください」。
 なじみと思われる中年の日本人客が追加のウイスキーを注文したら、松本さんは相手の健康をいたわり、あまりお酒 を飲まないほうがいいですよ、と優しく注意していた。
 僕はこのお店にたくさんの韓国人客に来てほしいと思う。もちろん日本人観光客にも。お店は、地下鉄1号線「チョンカク」駅下車、5番出口から地上に出て、30メートルほど清渓川に向かう。大きな橋を渡らづ、右方向の広い歩道 を50メートルほど行くと、大きなビル(韓国観光公社も入っている)の地下にある。
 入口に日本語で「あいわ」と表示されているので、直ぐ分かる。最初の写真参照。地理に不案内な方、迷った人は、お店の電話 02-3789-4919、松本さんの携帯 010ー9542-1103  に電話してください。
 お店の前を流れる「清渓川」遊歩道散策もお勧め。
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 僕は早朝この川沿いのウオーキングを満喫した。
 24日は水曜集会に参加しての帰りに寄ったので、その話をしたら、松本さんはソウル駐在 日本人会社員の声を紹介してくれた。「あまりいい感じを持っていません」と。
 23日僕の隣に座った日本人会社員は韓国に来て2年以上になるが、ほとんど韓国国内旅行をしていなかった。恐らくごく普通の仕事で来ている日本人は、韓国を深く理解したい、韓国人と友達になりたい、韓国の地方旅行をエンジョイしたい、という気持ちをもっていないと想像する。
 残念だ。日本大使館に勤める人たちはどうだろうか?

2016年9月 4日 (日)

韓国旅行 日本大使館前水曜集会参加と日本大使館へのアクション

 水曜集会に一度しか参加していないから僕のレポートは8月24日だけの出来事なのかもしれないが、終了後学生を除く参加者の大半が一緒に昼食を食べた。
 そのレストランは集会が行われたすぐ前にあり、バイキング方式であった。少し驚いたのは、お店の人が入ってきた僕らの人数をカウントしなかったこと。日本なら料金の請求をする関係で何人食べたかチェックするが、このレストランは鷹揚だった。これならまぐれ込んでタダで食べることもできる。
 想像にすぎないが、水曜集会に理解ある経営者のレストランなのかもしれない。「皆さん、ごくろうさん。食事代はそちらの申告する人数分でいいですよ。」と。
 集会のリーダーらしき人が、店内の参加者の数をカウントすることはなかった。僕は中年のおばさんと向かい合って食事をした。この時、韓国語を勉強していないことが悔やまれた。僕がどのような思いで、前日ナノムの家を訪れ、今日水曜集会に参加したのか、伝えることができなかった。
 何も話さず食べるのも気まずいので、ペ・チュンヒさんの写真を見せたり、カメラに納めてあるナノムの家で撮ったハルモニたちとの記念写真を見てもらい、身振りで僕の気持ちを理解してもらおうと努力したが、どれだけ伝わったかは分からない。
 食事を終えてから日本大使館に向かった。
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 大使館は解体され、無かった! タクシーの運転手と必死で探したが見つからなかったのも無理もない。
 後で分かったが、ここに新しく建てるとのこと。手前のバスは警察のバス。昨年3月末に来たときは、警備車両だったが、今回は観光バスと間違うほどの警察バス。威圧感がない!
 警備している警官に、大使館に行きたいのですがと告げると、後ろのビルを指さし、あのビルの中に移転しているとのこと。
 1階の受付で要件を伝えた。対応してくれた若い女性を最初は日本人と思いこんでいた。事前に面会の予約がないと、大使館のあるフロアには入れないこと、領事部なら入れると教えてくれた。
 領事部に行くと、空港と同様にボディーチェックと荷物検査 があった! テロを警戒してのことだと思われる。
 受付の女性に要件を伝えると、ここは長期滞在のビザを出すところで、あなたの要件は大使館のほうに行ってくださいと言われた。ここではいと引き下がる僕ではない。領事に伝えてほしいと、昨日ナノムの家を訪問したこと・今日は水曜集会に参加したこと・日本政府は少女の像の撤去を韓国政府に求めているがそれは韓国民の反発を買うだけであり、そのような圧力を韓国政府にかけることは問題の解決にはならないと、話した。日本語ができる韓国人の若い女性が対応してくれたが、軍慰安婦に関する僕の思いは正確に理解してくれたと思う。
 再度1階の受付で、領事部で言われたことを伝え、何とかして大使館の誰かに会いたいと
告げた。するとあなたの要件は何ですかと問われたので、領事部で話したのと同じ内容を伝えた。
 色々話していると、対応してくれた方は「私は韓国人です。大使館に電話して誰か会ってくれるか問い合わせます。」と言ってくれ、電話してくれた。
 結論はこうだった。大使館には事前の予約なしには入れない。電話なら可能。
 受付の女性がメモしてくれた電話番号に自分の携帯で電話すると、ちゃんと通じた。大使に伝えてくれと、長々と話すと、対応した相手は、そのような内容でしたら文書でファックスかメールで伝えてほしいと言う。それもそうだと思ったので、ファックス番号を聞いた。メールはホームページで調べられるとのこと。
 韓国から戻ってやるべきことがいっぱいで、まだ送ってないが、きちんと文書化して送るつもりである。
 日本大使館前の少女の像に向かった。こちらも昨年とは様子が様変わり。
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 少女の像の後ろに巨大な壁ができ、そこに軍慰安婦に関する日本政府への抗議や要求(ハングルは読めないが、多分そうだろうと想像する)が大きく書かれ、市民にアピールする写真や立ち寄った人が書いたメッセージカードが壁いっぱいに張られている。
 僕もメッセージを書いて張った。
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 恥ずかしい! 英文が間違っている!  apologize victimized  とすべきだった。
「日本政府は、犠牲になった女性に謝罪すべきである」、とのメッセージです。
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 3人の若者が縁台に座っていた。恐らく僕たちが高江や辺野古でやっているのと同様な座り込み抗議活動と思われる。頼んで写真を撮ってもらった。

2016年9月 3日 (土)

韓国旅行 日本大使館前水曜集会参加と日本大使館へのアクション

 8月24日水曜日、前から行きたいと思っていた水曜集会に参加することができた。前日ナヌムの家で、集会で挨拶をしたいと安所長さんに話したところ、すぐ責任者のヤン・ノジャさんに電話をかけてくれ、僕につないでくれた。
 ヤン・ノジャさんとは面識が全くない。挺身隊問題対策協議会の責任ある立場の人のようだ。日本語ができる。団体として参加ですかと問われ、個人と答えると、個人の挨拶はあまり例がないとみえて、時間の制約もあり1分間ぐらいならいいですと言ってくれた。
 何事も信頼関係が大切だから、水曜集会に参加するまえに彼女たちが運営している「戦争と女性の人権博物館」に行くことにした。
 実はこの博物館のことはソウルに着いてト・ヒョンさんから聞いて初めて知った。東京にも同様な博物館(資料館)があり、行ったことがある。
 ト・ヒョンさんが書いてくれたハングルのメモを頼りに、その博物館を探したが、これが難儀だった。地下鉄「ホンデ入口」を下車して、外にでたところ、たまたま掲示板に目指す博物館が書かれていた。
 その掲示に従って通りを歩いて行ったが、目指す建物は見当たらない。メモを示して数人の通行人に尋ねたが、誰一人知らない。若者3人がたむろしていたので尋ねると、彼らも知らなかったが、スマートフォンで調べてくれた。歩いては無理、タクシーで行かなければいけないと言う。
 駅前の掲示板ではそんなに遠い距離には思えなかったので、彼らの指示に従わず、やはり歩いて探し続けた。しかしいくら探しても見つからない。
 インフォメーションがあったので、中に入って尋ねた。日本語ができる若い方だったが、彼女は親切にもその博物館の住所と電話番号をメモしてくれ、これをタクシーの運転手に見せなさいとメモを渡してくれた。歩いていけば20分ほどかかるとのこと。
 大通りでタクシーを捕まえ、運転手にメモを渡してこれで安心とほっとしたが、実はタクシーの運転手も行ったことがなく、なかなか見つからない。そうとうあちこち走ったと思う。カーナビを見ながら走り探してくれたが、見つからない。
 タクシー会社の本社に電話してやっとわかったようだ。ここで降りてこの道を行けばあるよと、身振りで教えてくれた。タクシーのメーターの料金を払おうとしたら、半額以下にしてくれた。カムサハムニダ・
 指示された小道に目指す博物館の掲示があり、なんとかたどり着いた。
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 この建物が博物館。住宅街にあり、一般の人が知らないのも無理はない。
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 館内はカメラ禁止なので、外観しか撮影できなかった。ホテルを出たのは8時50分。博物館に着いたのは11時過ぎ。水曜集会は12時から始まる。
 受付でヤン・ノジャさんに会いたいと告げると、今日は水曜集会の日だからいませんとのこと。
 急いで館内を見学。日本軍慰安婦にされたハルモニたちに関する展示がおもだが、世界の人権侵害に関する展示もある。
 水曜集会に参加する若者(多分大学生)20名ぐらいが、なにやら練習をしていた。 苦労してたどり着いた博物館だが、12時の集会に送れるわけにはいかない。20分で外に出て、タクシーを探した。
 集会に参加すると思われる大学生の集団も通りに出ていた。彼らも路線バスを待っていると思い、声をかけたところ、チャーターしたバスで行くようだ。一緒に乗せてもらえないかと大学生に頼んだところ、責任者らしき女性がNOの表情を示していたので、諦めてタクシーで地下鉄入り口まで戻り、日本大使館に一番近い駅まで電車で行った。
 地下鉄を降りたのは12時過ぎ。タクシーで行くほかない。運転手は日本大使館を知らなかった! 韓国語ができない僕が、記憶を頼りに運転手に道案内をしながら日本大使館を目指した。
 なかなか見つからない。時計は12時10分過ぎ。焦る。あちこち走ってもらって、水曜集会をやっているところが目に入り、そこで降ろしてもらった。結局20分遅れ。
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 僕も赤い風船の棒2本を手に、リーダーが叫ぶシュプレルコールに合わせて棒をたたいた。参加者は約70名ぐらい。
 ヤン・ノジャさんはいますかと尋ねると、彼女はこの日は来ていなかった。ほんの少し日本語が話せる人がいたが、通訳までは無理と判断し、挨拶は諦め、最後まで参加者のアクションに従った。
 日本の原発反対金曜アクションと似ている。水曜コールをリーダーがマイクで叫び、参加者もそれに合わせてコールし、棒をたたく。
 違うのは赤い風船の棒とそろいの赤い帽子。首に暑さ対策用の水に浸したハンカチをまくことぐらい。
 この場所は日本大使館前ではない。どうやら警察が少女の像がある日本大使館前道路使用を許可しなかったと思われる。 通行人はたくさんいる。アピール効果はある。
 不思議だったのは、この日はコールだけだった。通行人にスピーチしたり、参加者がスピーチすることはなかった。
 僕は遅れて行ったので、スピーチは最初だけだったのかもしれないが。参加者は圧倒的に若い人が多い!
 中には子どもを連れた若いお母さんや夫婦もいた。終了したのは1時20分過ぎ。この後、食事に誘われ、参加者と一緒に昼食を食べた。
 この続きは次回レポートしたい。

2016年9月 2日 (金)

韓国旅行 ナヌムの家を訪れて その4  安所長 通訳のチェ・ヘギョンさん

 ナノムの家では、一人で訪れたにもかかわらず所長の安シンコンさんが対応してくださった。通訳はチェ・ヘギョンさん。
 安所長からいただいた名刺を日本に戻ってからよく見た。『 ナノムの家。日本軍”慰安婦”歴史館。国際平和人権センター 』 所長 安信権  兼任教授(社会福祉博士)とある。
 とても穏やかな方で好印象をもったが、その時は社会福祉がご専門だとは気づかなかった。
 所長さんが軍慰安婦に関する博士論文を書いたと伺ったので、歴史や社会学の研究者だとお会いした時想像したのだった。
 色々なお話をしたら、博士論文を本にしたから重いけれど贈呈すると話された。ハングルなので、僕には読めないが、金両基先生と韓国民団静岡県本部に渡すため2冊いただいた。
 8月31日、金先生の自宅に行くとき、その本に目を通したら、最後のところに英語で論文の趣旨が書かれていた。人権・福祉の観点から日本軍の性の奴隷にされたハルモニのことを研究したということが、理解できた。
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 金両基先生が読んでくれたら、後で安教授の論文の内容を聞きたいと思う 。民団県本部では宋事務局長に渡した。彼女は在日でなく、韓国から来られている方なので、軍慰安婦のことはよくご存じだった。
 通訳のチェ・ヘギョンさん から昨日(9月1日)メールの返信が届いた。お世話になったお礼と本を届けた報告への返信だが、その中に記念写真を撮ったハルモニの名前の説明
があった。おかげで僕がまたお会いしたい方の名前が分かった。ありがとうございます。
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左から、イ・オクソンさん。パク・オクソンさん。ハ・ジョミョンさん。
「ナヌムの家歴史館ハンドブック」という本(11年前訪問した際購入した。日本語で書かれている。)で、ここで暮らすハルモニの 紹介のところを探すと、イ・オクソンさんが出てきた!
 1927年釜山で生まれ、1942年に朝鮮人男性につかまり中国に連れていかれ、3年間、慰安婦生活を強いられた。梅毒にかかったこともある。その後、不妊症に。警官に殴られ耳の鼓膜が破れて今も耳がよく聞こえない状態。
 (この説明を読んで、お会いした時の彼女の反応がよく理解できた。僕が話す言葉、通訳のヘギョンさんの言葉が、耳が不自由で聞こえなかったのだ! 無反応だと勝手に解釈した自分が恥ずかしい。)
 彼女は戦後も中国で暮らし、韓国に戻ったのは1999年。なんと50年以上も異郷で生活をされた。ナヌムの家に来られたのは、2006年6月。中国での生活の苦労は、言葉で表せないと想像する。
パク・オクソンさんやハ・ジョミョンさんの説明は本に出ていないので、彼女たちの経歴は分からない。
 来年再訪して、心が通じ合える関係になれば、どのようなご苦労をなされたのかお尋ねしたいと思う。
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 上の写真は歴史館に展示されているものだが、右の女性はパク・オクソンさん。『また来てくださいね』、と僕に声をかけてくれたハルモニ。
 彼女たちは日本大使館前での水曜集会に以前はよく参加されていたが、現在は高齢のため無理だとのこと。
 僕は24日にソウルでの水曜集会に参加した。次回はその様子をレポートしたい。

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