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2023年11月 3日 (金)

#沖縄辺野古現地レポート その7  読谷村訪問記 恨之碑 

 辺野古の報告でないが、10月29日は日曜日で座り込みがない。以前から見学したいと思っていた読谷村にある「恨之碑」(はんのひ)を始めて訪れた。場所が良くわからないで、事前に読谷村に住むリーランさんに手紙を出し、案内を依頼しておいた。

 辺野古の宿「クッション」で7月にリーランさんと知り合った。顔立ちと名前から、彼はいわゆる混血の人だと想像したが、最初は生い立ちを聞ける関係でなかった。しかし5日間一緒に宿で生活する中で親しくなり、生い立ちを自ら語ってくれた。

 お父さんは米軍人。お母さんは沖縄生まれのうちなんちゅう。リーランさんが生まれた後、お父さんは本国に戻り、お母さんに育てられた。玉城デニー知事もそうだが、沖縄では米軍人と結婚して(中には同棲して)父親は母と子を捨て、本国に帰り、便りも養育費も無しのケースが多い。

 リーランさんのお母さんも生きるのが精いっぱいで、極貧生活だったそうだ。小学校時代、いじめにあい、学校がイヤになり、小学校もろくに通わなかったので、漢字が読めない・書けないのでリーランさんは仕事をするうえで苦労したそうだ。塗装職人となり、生活してきたとのこと。

 そのリーランさんの案内で、恨之碑へ。道が狭く、一人ではたどり着くのが無理なところに、芸術作品と思われる金城実氏制作のブロンズ像があった。

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 金城実さんは像の後ろ手に縛られている女性を、朝鮮半島から強制的に日本軍性奴隷として沖縄に連れてこられた女性の象徴として制作。左上の像は銃を持つ日本軍兵士を表している。足にしがみついている女性は、姉が連れ去れるのを悲しむ幼い妹を表している。

 いわゆる軍慰安婦は沖縄戦に巻き込まれ、多くの方が死亡している。正確な数は不明。僕は慶良間諸島の一つ座間味島にある慰安婦の方が生活された民家を見学したことがある。沖縄の各地に慰安所があり、米軍上陸前には日本兵が通っていたことを書物と証言で知っている。

 南部のガマを見学した時、日本兵は一番奥、沖縄住民は真ん中、朝鮮半島から連れてこられた女性は米軍の火炎放射にさらされる入り口と、避難する場所も決められていたと、ガイドから聞いた。

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 無念に異国で亡くなられた犠牲者の方たちに、そっと手を合わせお祈りした。

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 碑は高台にあり、海も見える。ガジュマルの大木が茂り、素晴らしい場所に存在するこの恨之碑を、是非多くの人に訪れてほしいと願う。

 ちょうどすぐ近くに住む方が、清掃されておられた。だれも管理していないので、草が生い茂り、木の枯れ枝も散乱し、見かねてボランティアで清掃されておられるとのこと。福岡県から退職後たまたまここに住み、それまでは「恨之碑」については全く知らなかったそうだ。

 この方と色々な話をした。中村哲医師写真展をやっていること、北九州大学卒業なので、福岡県のことは良く知っていること、軍慰安婦問題に関心があり、韓国の日本軍性奴隷にされたハルモニが住む「ナヌムの家」には7回訪問していること、この碑については「ポンソナ通信」を出している「沖縄恨之碑の会」の情報で知ったことなどを話した。

 この男性によると、最近韓国からの訪問客や日本にある朝鮮学校の学生さんが良く来るとのこと。一般の日本人観光客は来ないそうだ。

 この方のおかげで、とてもきれいになっている。読谷村にはチビチリガマやシムクガマなど戦争遺跡がある。この金城実さん制作のブロンズ像の碑も、青少年が戦争を考える村の教育資産として位置付け、村で管理してほしいものだ。

 道案内の標識も必要。現状では分かりにくい。時間があれば、村役場に電話してお願いするつもりです。

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